南総里見八犬伝 一 第四巻 第七回 その4 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 そのとき、杉倉氏元は、孝吉に向かって、

「八郎、あれを見てご覧なさい。私が館へまいるときに、あの老人が路地に立っていて『金碗様のお屋敷はどちらに』と、私の従者に聞いていたので、そのままにはしておけず、その理由を尋ねてみると、いろいろと聞くうちに男の子の事に話が及んだので、『孝吉は今日は屋敷にはおらぬ。会いたければ私の後にについてまいれ』と言って、ここに連れてきて、事情を城の役人に告げ、殿にも申し上げたところ、『それは良いことだ。八郎の子ならば、将来も頼もしいものであろう。私が自ら引き合わせよう。それまでは金碗に知らせるなよ』とおっしゃったのだ。これによって一作は、子と一緒に奥庭の折戸の陰にしのばせておいて、殿の仰せを待っていたところ、思いも掛けずに、お主は自害し、それを外から見ていた老人の心の内はどうであったろうか。せめて最後に親と子の名乗りをさせようと思われる、殿のお心だぞ。なあ八郎よ。」
 
と呼び、活を入れると、孝吉はすこし頭をもたげて、
 
「この期におよんで、親子の名乗りなどする必要はございません。私が主君を諌めることができず、滝田を去ったときに、上総国天羽郡(かずさのくにあまはのこおり)関村の百姓、一作というあの老人の家に留まりました。あの老人はわが父が使ったことがある若党でございます。それで、長い間一作の家に留まる間に、彼の娘濃萩とただならぬ間柄になってしまい、身ごもったことを打ち明けられて、私は心驚き、結婚もしていないのに、子を作るとは色情は悪事であると、恥じ入るとともに、古くから知る人とはいえ、その娘に浮き名が立つような傷を付けてしまっては、親が許すと言っても、顔を合わせることはできません。浅ましいことをしてしまったと、百遍も千偏も悔いましたが、後悔先に立たず。ひそかに濃萩には子を堕ろせと勧め、自分は詫びを書いた書状を一通、一作にのこして関村から走り去り、あちこちをさすらって、五年。その夏の日に昔の主の横死を伝え聞き、定包に復讐しようと、ひそかに古里に帰り来たのですが、上総とは連絡がなかなか付かないとはいえ、一作や濃萩の事は少しも問うこともなく過ごしてしまいました。そのようなことですから、その子がつつがなく、生まれ、養育され、良い子に育ったとみればなおのこと、面目ありません。」
 
という話す声も息絶え絶えである。
 
 「実にその通りでございます。」
 
と一作は、なぐさめることができず、鼻をかんで、

「さすがに勇ましい武士でも、恋には脆い人情があり、まして孝吉様には妻もなく、子もない旅で、それを慰める娘の濃萩は、あなたさまに恋をしております。さらに私の昔の主人の胤(たね)をいただくとは、娘はあっぱれ果報者、よき婿ができたと心では婆と一緒によろこんでおりました。しかし、どういうふうにお考えになったのか、あなた様は出て行かれ、行方知れずになり、娘は程なく臨月になり、産んだ子は、男児でした。めでたいと祝う間もなく、濃萩は積もる思いと一緒に冥土に逝ってしまい帰らぬ人となってしまいました。その初七日、二七夜と食べるものもなく、乳は他人からもらい、生死をさまようような病気にもかかりましたが、赤子は健やかに育ちました。あなた様と娘の形見だと見れば可愛く、愛おしく、昼は一日懐に抱き、夜は爺婆が交代で添い寝して、ようやく立てば、這わせ、笑えば、何かものを言えと、心ばかりは赤子の成長を祈っておりました。綿で作った馬に綱をつけて、孫に引かれて、田に生えた二番草を刈り忘れるといったことを毎年のように繰り返して、いつのまにか四つになっておりました。そして去年の秋より婆が病つき、片手での看病では、なかなか思うように病気も治らず、大晦日には婆が往生してしまいました。片腕がとれた木の人形と、稚児と私の三人で、棺を守り、あらたな年を迎えましたが、その門松は冥土に向かう旅の一里塚のようにも思え、禅僧のように悟ってみても、私は凡夫でございます。六十八の今年は一生涯の憂苦艱難(ゆうくかんなん:苦しみ、困難に出会って嘆き悲しむこと)を一つに合わせてもまだ足らないほどの大厄難だと思って、孫に見られようが、恥ずかし気もなく、泣くだけの老いた我が身でございました。春になっても、涙がかれることなく、仏へ手向ける裏庭の梅莟(つぼみ)をみて、五才になった稚児が無心で真似て念仏を唱えておりました。夕暮れにはその念仏にもあくびが混じるようになり、春が過ぎて卯月の末に上総にまで、隣国のこと、あなた様の合戦の様子などが聞こえてまいりました。初めて聞いたときは驚きましたが、私の心に勇気がわきあがり、行ってお会いしたいと思いましたが、歩行も不便な老人が稚児を背負って戦場に行くのは、とても危険とあきらめ、時を待とうと思い返しました。そのうち、戦勝の様子を聞いたので、心を決めて今日、ここへまいりましたのに、あなた様との最後の対面となってしまいました。過去の業報(ごうほう)が思いやられ、この一作の悲しみは、どうでもよいことでございますが、この子が成人するのに両親の顔を知らないというのは、かわいそうでございます。なあ、加多三(かたみ)、あれこそお前の父親であるぞ。顔をよくみて覚えておきなさい。」
 
と指させば、稚児は伸び上がり、
 
「ととさま、のう」
 
と声を立てて呼んではみるものの、親の孝吉は見るばかりで、何か言いたいのか口を動かしているが、唇の色は変わってきて、もはや臨終と思われたので、義実は稚児を孝吉の近くに連れてきて、よく見えるようにして、
 
「面影は、父八郎によくにておる。その名は何と呼ばれているのだ。」
 
と問うと、一作は膝を押し屈めて、見上げるように、
 
「はっきりと定めた名はございません。八郎様と娘の形見ですので、加多三、と呼んでおります。」
 
と言うと、
 
「そうか。この子を私に預けてはくれないか。父孝吉は私を助けて大きな功績がある。これをその子の名にあらわして、金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)と名乗って、父の忠義を受け継いで欲しい。成人すれば形式通り、長狭半郡を分け与えて、東条の城主としよう。一作は外戚(がいせき)である。一緒に留まって、大輔の後見をしてくれ。当座の懸賞五百貫はこの稚児にとらせよう。これを冥土の苞苴(つと:みやげ)にして、成仏するのだぞ、八郎」
 
と呼び励まされて孝吉は、鮮血にまみれた左手を上げて、主君を拝み、きりりきりりと引き回す刃のあとに大腸が出てくるのを掴んで、
 
「人々、介錯をお願いいたします」
 
というのが最後の言葉で、うなじを前に倒しながら伸ばしたのだが、苦しみだし、
 
「これ以上苦痛を与えぬぞ」
 
と義実は、自分が佩いた刀を引き抜いて、孝吉の後ろに立つと、最後まで立派だった八郎の首は前に落ちたのだった。覚悟はしていても一作は耐えられず声を出して泣き、繰り言に受け答えをしながら、氏元、貞行は優しく慰めていた。稚児はただおろおろとして、自然と涙ぐむ理由もわからず、息絶えた父親の顔を、そっとのぞき込む、その姿もまた悲しみをさそった。
 
 さて、金碗八郎が死に果てたとき、星が流れ堕ちて、七日の月は西に入り、好ましくない薄くぼんやりとした火玉が閃き、女の形が影のように、大輔の身に添ったかとおもうと、かき消えてしまった。これを見た者は義実だけであった。その他のすべての者には見えなかったのだ。
 
 その後、義実は氏元、貞行を近くに招き寄せ、孝吉の葬式、大輔の養育について丁寧に命じ、やがて奥の間に入っていった。水時計の音は高く、夜はすでに亥の刻(午後十時)になっていた。
 
 作者注。この第七回は文月(七月)の初旬であるが、挿絵は冬の衣装のようである。しかし薄衣(うすきぬ)は描こうとしても彩色しなければはっきりとしないのである。こういったことは作画者にまかせているので、敢えて時節に拘ってはいない。こういったことはいくつかあるので、見る人は深く咎めないように。
 
 また、ここの挿絵には氏元だけを描き、貞行を省略している。たいしたことはないことだが、ここに述べることで、剞厥氏を助けることになろう。
 
 さらにいうと、この巻の第一回、結城合戦のくだりより、ここまでの間は僅か四ヶ月、嘉吉元年四月に起きて、同じ年の七月に終わる。その間八十日余りのことである。次回、第八回では年月は経ち、十六、七年後の事に及ぶ。その間には伏姫(ふせひめ)の成長について述べていくが、さしたる物語がない所では省略するつもりなので、しつこくは語るつもりはない。いつもの事ながら、精粗(せいそ)はお互い趣旨が異なることなので、柱に膠を塗ってくっつけるように似ているが、あまり細かく語ると、誤ってしまうこともあるので、注意深く見ることができない人のために、このような理由をわざわざ述べたまでのことである。
 
(その4 ここまで)
第七回終了