91 殷富門院大輔 千載和歌集
みせばやな をしまのあまの 袖だにも 濡れにそぬれし 色はかはらず
殷富門院大輔は平安末期の女流歌人。父は藤原北家勧修寺流・従五位下。藤原信成、母は従四位式部大輔・菅原在良の娘。作者は、若い頃から後白河院の第一皇女・殷富門院・亮子内親王に出仕し、同時に歌壇デビュー、長年活躍した。とくに俊恵が自坊で主催した花林苑の主メンバーで、定家、寂蓮、西行、源頼政など、多くの歌人との交流があった。建久3(1192)年、殷富門院が出家するのに伴って、自身も出家した。
この歌、源重之が詠んだ
松嶋や をしまの磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
という後拾遺和歌集に撰歌された歌の本歌取である。結句の「かくはぬれしか」に「かくれ・ぬれし」が詠み込まれていることから、殷富門院大輔は「みせはやな」=「見せばやな」を初句としている。「やな」は間投助詞「や」と終助詞「な」で「~であることよ」といった感動の意を表す。二句「をしま」は「雄島」、宮城県松嶋湾の島。渡月橋の近く。「あまの袖」は「海女の袖」、「だに・も」は「せめて~だけでも」。下句・四句の「ぬれに・そ」の「そ」は副詞「な」を伴わない禁止・制止の終助詞。上代では「な」だけで「そ」を伴わなかったが、中世に入るころになると「そ」だけで使われることが多くなる。この歌の場合、「ぬれに・そ・ぬれし」とあるので、「濡れないで欲しかったのに、濡れてしまった」という使われ方だ。四句切れ。
訳してみよう。
訳してみよう。
雄島の海女が海から上がってくるところを見てごらんなさい、濡れたくはなかったのだろうけれども、あんなに濡れてしまった。でも袖の色は変わらないのね。
本歌取といっても、歌合のようになっていて、源重之が「男漁りが激しい女がいるものだ」という意味で詠み、それに対して「女の心を変えるのは、袖をぬらすようにはいかないのよ」と返しているのだ。
折句もできている。
冠:みをそぬい
沓:なのもしす(反転)
「みを・そ・ぬい、すし・もの・な」で「自身をそのような折目正しく過ごしているというのは、人情の機敏に通じている女として当然のことですわ」という意味になろう。「な」は「女」と「也」が掛かっている。この見事、雄大な歌風は誰に学んだのだろうか。
狂歌
91 一本亭芙容花 俗耳鼓吹
磨いたら磨いただけは光るなり 性根(しょうね)玉でも何の玉でも
作者は、天明2年(1782)に浪花(大阪)から江戸に下り、宝珠の絵にこの歌を記した額を浅草寺観音堂に奉納した。芙容花は、本名・平野屋清兵衛、翌年江戸で亡くなった。狂歌師である。
奉納の翌日、落首があった。
磨いても磨いただけは光るまじ こんな狂歌の性根玉では
なんのことはない、ひがみである。一方京では、
光ろかのこんにゃく玉も藍玉も たどん玉でもふぐり玉でも
という落首があった。こちらの落首は「犬つくば集」の
昔より玉磨かざれば光なし ふぐりの辺りよくぞ洗はん
の捩りである。
下品の上に笑福あり、上品の下に悲哀あり、だな。まったく良く考えるものだ。