鎌倉検定過去問~源頼朝の永福寺~ | kurouの歴史メモ

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奥州藤原氏の築いた平泉の中尊寺大長寿院を模して、源頼朝が造営したという壮大な寺院の旧跡はどこか。

源頼朝が二階堂に永福寺を創建したのは何のためか。

度重なる火災などで失われたが,奥州藤原氏が築いた平泉の中尊寺の二階大堂(大長寿院) を模して源頼朝が創建したという壮大な寺の旧跡はどこか。

源頼朝は、[    ]を攻めたときに見た平泉の中尊寺金色堂や[    ]の庭園の壮麗さに感銘して、後に、鎌倉の地にもこれに似た壮麗な寺や庭園を築いたのが、[    ]である。[    ]は、鶴岡八幡宮(寺)・[    ]とともに、鎌倉幕府成立当初の三大寺院といわれた。将軍の創建であり、幕府主催の国家守護の祈祷を行うところから「幕府の[    ]」という性格を帯びていた。



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1187年(文治3年)10月29日に源義経を庇護していた奥州平泉藤原秀衡が死去し、1189年(文治5年)閏4月30日に義経が泰衡に討たれると・・・

7月19日、源頼朝奥州征伐を開始。

秀衡の子泰衡は平泉館を焼き払い、逃亡の末、9月3日、比内郡贄柵で郎党に殺されました。

これによって藤原清衡以来栄えた奥州藤原氏は滅びました。


永福寺は、源頼朝が奥州平泉の中尊寺毛越寺無量光院などを模して建てた寺院。

藤原泰衡や源義経をはじめとする内乱の戦死者を鎮魂するために建立したのだといわれています。

1405年(応永12年)に焼失し、その後廃絶したものと考えられています。




永福寺跡では、2017年(平成29年)に二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の基壇と苑池の復元が完了。

苑池の景観は、宇治平等院鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されています。

本堂は、中尊寺大長寿院(二階大堂)を模して建てられたようですが、両側に阿弥陀堂、薬師堂を従え、前面には苑池も造営されていることから、全体のイメージは、無量光院を参考にしたのかもしれません。

無量光院は、奥州藤原氏三代目の秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院だったといいます。



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奥州藤原氏と源氏の過去を乗り越え、友好の証として、2019 年(平成 31)4月に平泉町から鎌倉市に寄贈された花は何か。



2019年(平成31年)、平泉町から中尊寺大池跡に咲く中尊寺ハス5株が鎌倉市に寄贈され、2021年(令和3年)から永福寺跡に置かれています。

中尊寺ハスは、源頼朝奥州征伐で滅ぼされた藤原泰衡の首桶から発見されたハスの実が発芽したもの。



鎌倉検定



永福寺跡


源頼朝の永福寺と藤原秀衡の無量光院・藤原頼通の平等院

中尊寺ハス


源頼朝建立の三大寺院

歴史めぐり源頼朝


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奥州平泉


中尊寺

毛越寺

観自在王院

無量光院


源義経最期の地

奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~


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