梶原施餓鬼会は、1200年(正治2年)1月20日、駿河国清見関で討死した梶原景時の霊を慰めるために行われているもの。
伝説によると・・・
建長寺で施餓鬼会が行われた日のこと。
梶原景時の亡霊が現れます。
亡霊は施餓鬼会が終わっていたので残念そうに引き上げていったそうです。
しかし、開山の蘭渓道隆が呼び戻し、再び施餓鬼会を行ってあげると、感謝して消えていったのだとか。
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梶原景時は、1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵したときは平家方に付いていましたが・・・。
『吾妻鏡』によると、石橋山の戦いに敗れ、山中に逃れた源頼朝の居場所を知っていながら、それを見逃したのだといいます。
しとどの窟
(湯河原町)
(湯河原町)
湯河原町のしとどの窟は、石橋山で敗れた頼朝が隠れ潜んだ所と伝えられています。
その後、景時は頼朝の御前に参り、御家人として名を連ねることとなります。
頼朝の信任が厚かった武将でしたが、1199年(建久10年)に頼朝が亡くなると、間もなく、御家人66名からの弾劾を受けてしまいます。
翌年には鎌倉を追放され、駿河国で最期を遂げました(梶原景時の変)。
鎌倉を追放された景時は、一族とともに一宮館に退きます。
そして、上洛しようと一宮を発ったのですが・・・
駿河国清見関で在地武士と合戦となり、一族ととともに討死しました。
梶原山の碑に刻まれている「鎌倉本體の武士 梶原景時終焉之地」は、建長寺管長の筆。
深沢小学校裏のやぐら内にある四基の五輪塔は、景時一族の墓と伝えられています。
午前8時、国宝の梵鐘が撞かれ施餓鬼会が始まります。