玉縄城は、1512年(永正9年)に
北条早雲が三浦氏を攻略するために築いた城。
室町時代の鎌倉には、鎌倉府が置かれ、その長官は
鎌倉公方と呼ばれていました。
しかし、1454年(享徳3年)の
享徳の乱で鎌倉公方の足利成氏が鎌倉を追われると、
源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることになってしまいます。
玉縄築城の際、荒廃した鎌倉を見た早雲は、
「枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ」
と詠じ、鎌倉をもとの武家の都とすることを誓ったのだと伝えられています。