九条兼実は、源頼朝の征夷大将軍任官に尽力した公卿。
天台座主(延暦寺の貫主)となった慈円は同母の弟。
鎌倉幕府四代将軍となる九条頼経は曾孫。
関白となって政治の主導権を握った兼実は、南都焼討によって荒廃していた興福寺や東大寺の復興にも力を注ぎますが・・・
1195年(建久6年)に東大寺大仏殿の落慶供養に参列するため上洛した頼朝は、娘の大姫を入内させるため、兼実と敵対関係にあった土御門通親と丹後局に近づきます。
頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことで、翌1196年(建久7年)11月25日、兼実は関白の地位を追われて失脚。
その後政界に復帰することはなく、1207年(承元元年)4月5日死去。
法性寺に葬られました。
最勝金剛院は兼実の廟所。
東福寺は、兼実の孫道家が、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺内に九条家の菩提寺として伽藍を建立したことに始まる寺院。