『吾妻鏡』によると・・・
平重衡の南都焼討によって焼失した東大寺の再興に助力していた源頼朝は、1194年(建久5年)、大仏殿内の二菩薩と四天王の造像を御家人の負担としています。
観音菩薩像・宇都宮朝綱
虚空蔵菩薩像・中原親能
増長天像・畠山重忠
持国天像・武田信光
多聞天像・小笠原長清
広目天像・梶原景時
脇侍の虚空蔵菩薩と如意輪観音、四天王像は運慶とその一族によって造立されたものだったといいます。
しかし、頼朝御家人に命じて造像の負担をさせた二菩薩と四天王は、松永久秀の兵火によって焼失してしまいました。
その後、造像されたのが現在の諸仏ですが、持国天と増長天は頭部が残されているのみとなっています。