大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第二話では、源頼朝が起つときには味方すると約束していた山内首藤経俊でしたが・・・
「山内首藤氏」は、藤原秀郷の後裔といわれ、資清の代で「首藤」を名乗ります。
その後、孫の俊通が相模国鎌倉郡山内荘を領して「山内」を名乗り、「山内首藤氏」と呼ばれるようになったといわれています。
「首藤」という氏は、資清が「主馬首」(しゅめのかみ)という役職にあったため、「主馬首」の「首」と、「藤原」の「藤」に由来しているといわれています。
首藤氏は、代々源氏に仕えてきた家で、俊通は源義朝に仕え、妻の山内尼は頼朝の乳母を務めています。
1159年(平治元年)の平治の乱で、俊通は、子俊綱とともに義朝のものと参陣し討死しました。
経俊は、父俊通と兄俊綱が平治の乱で戦死したことにより、「山内首藤」を継ぐことになります。
ただ、代々源氏に仕えていながら、1180年(治承4年)の頼朝の挙兵には参じず、石橋山の戦いでは、大庭景親に味方して頼朝に弓を引いてしまいます。
『吾妻鏡』によれば・・・
頼朝は、挙兵に際して、安達盛長を遣わして経俊に参陣を呼びかけていますが、7月10日の盛長の報告は、
「相模国には従う者は多くいます。
しかし・・・
波多野右馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は、呼びかけに応ずるどころか、暴言を吐く始末です」
というものでした。
頼朝は、石橋山の戦いでは大敗してしまいますが、安房国で再起し、10月6日には鎌倉に入ります。
そして、10月20日、富士川で平家の追討軍を敗走させると、23日には、大庭景親をはじめとする石橋山の戦いの残党が頼朝に降服してきます。
その中に経俊もいました。
経俊は山内荘を没収され、身柄を土肥実平に預けられました。
その後、経俊は死罪とされますが、母の山内尼が頼朝に助命を願ったことで許されています。
「紫陽花寺」として知られる北鎌倉の明月院は、経俊が父の菩提を弔うために建てた明月庵を前身としています。