父の髑髏を勝長寿院に埋葬した源頼朝 | kurouの歴史メモ

kurouの歴史メモ

源頼朝ゆかりの地めぐり、大河ドラマゆかりの地めぐり。
寺社・史跡・人物・歴史・伝説など。
花とイベントも。
https://www.yoritomo-japan.com/

勝長寿院は、1185年(文治元年)、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。


義朝は、1159年(平治元年)12月に起こった平治の乱平清盛に敗れ、翌正月3日、東国へ向かう途中の尾張国野間長田忠致の裏切に遭って殺されてしまいます。

その首は京へ送られ、9日に獄門にかけられました。





頼朝は、建設中の勝長寿院に父義朝の廟所を設けるため、後白河法皇に義朝の首の探索を依頼します。


『吾妻鏡』によると・・・

1185年(文治元年)8月12日、後白河法皇は、刑官に命じて、東の獄門の辺りで源義朝の髑髏(しゃれこうべ)を見つけ出させ、義朝の郎党鎌田政清の髑髏(しゃれこうべ)とともに、大江公朝に持たせ鎌倉へ向かわせています。

8月20日、義朝の遺骨を葬るに当たっての法事を行うため、伊豆山権現の專光坊良暹が鎌倉に到着。

8月30日、大江公朝が鎌倉に到着。

遺骨は、文覚の弟子が首にかけていました。

頼朝は、片瀬まで出迎えて、父義朝と鎌田政清の髑髏(しゃれこうべ)を受け取ったそうです。


そして、9月3日午前0時頃、頼朝は、義朝と政清の遺骨を勝長寿院に葬りました。


立ち会ったのは大内義信、毛利頼隆、大内惟義らの源氏のみ。

大内義信は、新羅三郎義光の四男で、平治の乱で義朝に従い、敗戦後、東国に逃れる義朝に従った七人のうちの一人でした。

毛利頼隆は、八幡太郎義家の孫で、父義隆は平治の乱で義朝の身代わりとなって討死しました。

大内惟義は、新羅三郎義光の孫で大内義信の長男。


一緒に葬られた鎌田政清は、義朝の第一の郎党で、政清の母は義朝の乳母でした。

そのため、義朝と政清は乳兄弟とも呼ばれていました。

政清は、平治の乱後、東国に逃れようとする義朝に従っていましたが、尾張国野間で義朝とともに暗殺されています。




本蓮寺は、頼朝が再建した寺で、義朝の遺骨を受け取った場所ともいわれています。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源義朝

源義朝終焉の地

歴史めぐり源頼朝


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝


よりともジャパン.com