サブロー先生の三国志コラム その1 ~蜀漢滅亡の幕を引いた武将達~ | ブラウザ三国志ノート 「軍令」

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さて、本日より★ゴン太王国★のうんちく王子「サブロー先生の三国志コラム」を新連載。

このサブローというのは私ナミの大学の同期でかれこれ17年というクサレ縁。
高校の同期である★ゴン太★(20年以上)の次にリアルつながりの長い男で生粋のうんちく屋。
私も三国志についてはそうそう人に劣らぬ知識を持っていたつもりですが、このサブロー君はちょっと想定外の切り口から三国志を語ることも多く、それは知らなかった的なこともたくさん出てくると思います。

※このコラムは★ゴン太王国★内にて同盟掲示板で連載されているものを転載したものです。
 主に私が自分で更新すんのめんどくせえときに登場します。

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どうも、以前に掲示板にコラムを掲載していたサブローです。初めましての方は初めまして、以前にもご覧になられていた方はお久しぶりです。

確か3期から始めていたコラムですが、4期は激動の荒波にもまれ、また現実世界も負けず劣らずの大変さですっかり更新がとだえておりました。その間にもカードは次々と追加され、以前に紹介した李典とかもカード化されましたね。予想通りの地味さに安心しました。

そんな追加カードから、聞きなれない人は聞きなれない武将に着目していきましょう。今回は蜀漢滅亡の幕を引いた武将達と題して鄧艾と鐘会に注目していきます。
三国志の物語は劉備の一生とその後の諸葛亮の奮闘に着目されがちで、諸葛亮没後の話はおまけみたいに扱われることが多いですね。確かに関羽や張飛、周瑜や諸葛亮といったチート武将が全員いなくなり、最後に残ったチート武将、司馬懿及び司馬一族の独壇場ですから、蜀中心の視点からすると祭りの後という感じになるのもさもありなんです。
蜀側に最後に残った名将、姜維を中心には描かれますが、暗君として名高い?劉禅に足を引っ張られまくりで、蜀ファンには非常にストレスが溜まる話になっております。

脱線しました、鄧艾と鐘会でしたね(゜∀゜)次に二人の経歴を紹介します。

まず鐘会ですが、彼は古くは漢楚戦争において楚の項羽に仕えた名将鍾離昧の子孫で、魏の重臣である鐘ヨウの息子です。幼少の頃から才能を認められ、母親の英才教育の甲斐もあり、秀才として認められた男でした。
魏皇帝として君臨した曹一族の力が徐々に弱まり、乗っ取ろうとする司馬一族の権力が高まる中、魏の内部ではいくつかの反乱騒動があり、鐘会はその討伐で功をなし、張子房(漢の初代皇帝、劉邦の軍師)の再来とまでいわれています。
それだけの用兵の才能もあり、文人としても才能があった鐘会。しかし彼にも欠点がありました。
非常にプライドが高い!気にくわない人がいると陥れたりとか、自分の手柄を誇りまくったりとか、嫌われるタイプでした。

一方、もう片方の鄧艾。彼は一兵卒から叩き上げでのしあがった武将です。吃音ながら地道な努力を重ね、司馬懿にそれを認められ抜擢され、その後は反乱の鎮圧や蜀漢の姜維からの攻撃を撃退したり功を重ねました。人望も厚いですが、やや強情で独断なところはあったみたいですね。
そして時は流れ西暦263年。蜀漢は姜維の度重なる遠征で資源を失い、皇帝である劉禅が宦官や祈祷師の言うことの言いなりで政治も乱れており、末期状態にありました。そこで当時権力を握っていた司馬昭(司馬懿の息子)は蜀を滅ぼすべく、二人(ともう一人、諸葛緒という人、空気)を送り出したのでした。

ともに名将でありながら、才能を鼻にかける名門武将と、叩き上げの雑草武将。この二人が一緒にいてトラブルが起きないわけがありませんでした…

蜀は姜維を総大将に防戦を開始しますが、重要拠点の陽平関を突破され領内に侵入されます。そこで姜維は難攻不落の剣閣に立てこもります。そこで鄧艾は迂回路を通って背後を突く作戦を進言しますが、断崖絶壁を突破するようなルートだったため鐘会は反対。そこで別働隊を率いて鄧艾は迂回作戦を開始します。
多くの犠牲を出してなんとか突破した鄧艾軍は、蜀の最終防御ラインである綿竹関を攻撃。諸葛亮の子である諸葛センが応戦しますが、陥落します。そしてそれに恐怖した蜀皇帝劉禅はあっさり降伏してしまいました…

一方その頃、姜維と鐘会は剣閣で大激戦を繰り返していましたが、そんな姜維の元に、蜀は既に降伏したとの報告が…。姜維達蜀の将兵は、剣を岩にぶつけて叩き折りながら悔しがり、鐘会の元に降伏するのです。しかし、それは一つの始まりでもありました…

姜維は、鐘会が鄧艾の功績を憎んでいるのを見抜き、鄧艾を殺して蜀を乗っ取る悪だくみを進言しました。(姜維はその後鐘会を殺して蜀を復興するつもりだった)そこで、鐘会は本国にあることないことを吹き込んで、鄧艾を弾劾しようと動き出しました。

一方鄧艾は蜀を落とした後も乱暴は働かず、治安を維持するようなことをしてました。そして蜀の戦力を合わせて呉を攻撃するような進言を行いますが、中央の司馬昭はそれを独断専横と判断。鐘会に鄧艾を捕えるよう命令を出しました。
かくして鄧艾は捕えられ、姜維と鐘会の悪だくみは成功したかにみえました。しかし、二人が魏を裏切ろうとしていることが露見。身内の反乱にあい、二人は殺されてしまいます。そして一度捕縛したことを恨まれるのを恐れた者により、鄧艾も殺されてしまいます。そして蜀は本格的に滅亡しました…

一方、降伏した元皇帝劉禅ですが、魏に連行されたあと、宴会の席で蜀のことが懐かしくないか?と問われ、「いや~ここは楽しいですわ(゜∀゜)帰りたくないっすね」みたいに答えてあきれられたそうです。
まあ歴史の敗者は貶められるものですが、これは野心のなさをアピールしたとすれば、あながち賢い返答でもあったと思います。降伏した結果、蜀が戦火にあうことは免れましたし劉禅自身、天寿を全うしました。しかし、姜維は草葉の陰で泣いていたかもしれませんね…

最終的には誰もいなくなってしまった蜀討伐戦。でも狡兎死して走狗煮らる、統一が近づく過渡期の悲劇だったのかもしれませんね。(呉討伐戦がまだ残っているだろって突っ込みはなしでw)