2024年9月30日-10月1日 聖書通読5-6日目
みことばで神様と交わろう
申命記、ヨシュア記
神が私たちに求めておられることは何か人に聞けば、あらゆる答えが返ってくる。しかし、聖書ははっきりクリアに教えてくれる。
「今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か(申命記10:12-13)」、「それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである(申命記10:12-13)」。つまり、主を愛し、主の命令を守ること。
だが、これは一人ではできない。絶対にできない。それで主はもう一度言われる。「主があなたに何を求めておられるのか(ミカ6:8)」主ははっきりと教えてくださる。「それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)」
神とともに歩むなら、絶対にそれができるのだ。なぜなら、「私が」ではなく「神が」成し遂げてくださるからだ。
神が「あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる(申命記30:6)」。どのように心に割礼を施すことによって。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。(申命記30:6)」
心の割礼は人の手によらない割礼だ。誰がそんなことをしてくれるのだろう。その方こそ、主イエスキリストだ。「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(コロサイ2:11)」
刺し通された方を十字架上に見ても、人の心はあまりに固い。その意味が分からない。しかし、継続してその方を見ていくとき、キリストがキリスト自身の罪のために死なれたのでないことを知る。ああ、誰かのために死なれたのだと進んでいき、あるとき、心が刺される。それは、御霊によって心に割礼が施されるとき。そして、人は「イエスキリストは私の罪のために死なれた」ということを受け取るのだ。
この世界で見ること、聞くことがすべてではない。それだけで生きていくなら、この世を謳歌しても、やがては弱まり死んでいく。
しかし、主イエスキリストとともに歩むなら、この世を生きながら、見えなかった世界が開かれていく。それは主イエスキリストが治める永遠の神の国。それゆえ、主は言われる。「ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい。(ヨシュア23:8)」世は教える。「自分を信じよ」と。しかし、聖書は教える。「神にすがれ」と。誰にすがるか?救いを成し遂げてくださった方。救いを完成してくださる方。すなわち、主イエスキリストだ。
ああ、主よ、イエスよ、「私のたましいは あなたにすがり あなたの右の手は 私を支えてくださいます。(詩篇63:8)」ハレルヤ
私は新しく造られた者
神が喜び楽しむ者
私はイエス様の中に
イエス様は私の中に
今日もみことばで交わろう
Reading the Bible is not about checking a box - it’s about building a relationship with Jesus!