2024年5月13-19日  聖書通読134-140日目
みことばで神様と交わろうニコニコ  
 
マルコ9-15、Ⅱサムエル1-14、詩編58-60篇

人は悲しむ。それは罪のゆえキョロキョロ罪のない世界に悲しみはないのだ新しい天と地では悲しみはないびっくり。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない以前のものが過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録 21:4)

しかし、今この地には悲しみがある地球人の悲しみは弱い。弟子の誰かが裏切ることを知ったとき「弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」(マルコ14:19)」その悲しみに、人はどうすることもできない手

主に目を覚ましていなさい。(マルコ14:34)」と言われても、悲しみ疲れて寝てしまう悲しい。「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた(ルカ22:45)」ああ、これは私の姿。悲しんでも、それで何をも変えることもできず、疲れ果てて寝てしまうだけzzz

主イエスも悲しまれる。ゲッセマネの園で主は言われた。わたしは悲しみのあまり死ぬほどです(マルコ14:34)」しかし、主の悲しみは私の悲しみとは全く異なるものだったチュー。私は自分の罪ゆえに悲しむけれど、主は私の罪のために悲しまれた。ただ悲しまれるだけでなく、わたしは悲しみのあまり死ぬほどです(マルコ14:34)」と言われ、悲しみのあまり、本当に死なれたのだえーん。その究極の悲しみは同時に、私の理解を超える究極のあわれみだった。

イエス様の悲しみは力炎。それは愛の力。罪を打ち破り、死んでいた者にいのちを与える究極の力十字架雷。ああ、こんな愛がどこにあるだろう。

人が悲しみを経験するとき、それは主イエスキリストの本当の悲しみに出会うとき。その偉大なる力の主に遭遇するとき。それゆえ「悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。(伝道者の書7:3)」という。主イエスキリストに心が開かれると、主イエスキリストの心が入ってくるからだハート

ああ、今日もこの方に頼る。主イエスキリストを賛美する。湧き上がる感動を止めることはできない。もっともっとと、主を知りたくなる。それで今日も聖書を開く。あふれる恵みがそこにある。ハレルヤ爆笑!!

私は新しく造られた者
神が喜び楽しむ者
私はイエス様の中に
イエス様は私の中に
今日もみことばで交わろうハート

Reading the Bible is not about checking a box - it’s about building a relationship with Jesus!