2024年5月6-12日  聖書通読127-133日目
みことばで神様と交わろうニコニコ  
 
マルコ2-8、Ⅰサムエル18-31、詩篇55-57、箴言11章

ある朝ふと思った。あー、私はセカンドチャンスを生きているびっくり一度死んだ者。そのことに目が開かされた瞬間があった雷

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた(ロマ6:6)」のだ。何の怖いことがあろうか。不思議とすべてが新鮮に見え出した。カフェの目の前の額のガラスに映った通りの景色も、何か特別なものに見えたキラキラ

↑先週、軽井沢に行って見た新緑のように、すべてが主の光に照らされて、キラキラだったキラキラ


その日が過ぎると、私の感覚は普通に戻って、日常の中に帰ったけれど、でも、いったんその感覚を体験したから、みことばを読むごとにそこに戻っていける雷 死んで、何もかもなくなった者が生きている。古い肉にあって生きていても、肉に従ってはいかない。「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません炎(Ⅱコリント10:3)」

私たちはいつでも思い出すことができる。そうか、そうだったキョロキョロ。自分で責任をもって生きようとした古い私は死んだのだ。今生きてる私は全く新しい存在だ。主イエスキリストを信じ「神の所有の民(Ⅰペテロ2:9)」となった者。責任のすべては主が負ってくださる。

うまくいってもいかなくても気にしないバイバイ。私の肉にあるものが現れてもへこたれない。それを主に渡してしまうだけ。私の中で主が広がるだけ炎。それは素晴らしいこと。

自分に誇るところは何もない手。いや、自分にあるのは醜い姿だけだと知っていく。卑怯で卑屈で自己中心ガーン。世の中に最悪の人がいれば、ニュースに出る凶悪犯罪者がいるなら、それは私の鏡。外に表れていなくても、同じ罪がうちにある。ただ主のあわれみで、それが表面に出てはいないだけ。環境状況が揃うなら、同じことをするチュー。悲しむべき罪人。それなのに、私のうちに潜む罪までも赦してくださったイエス様のゆえに、今私は生きている。

ああ「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。(マルコ ‭2‬:‭7‬ 新共同訳‬)」誰もいない手。神、主イエスキリストのほかに、罪を赦すことができる人はいない。

わたしゆえに、あなたの罪は赦された!」と叫んでくださるイエス様を信じるハート。罪が何であるかを、ご自身のすべてをもって教えてくださった方十字架。十字架のあのむごたらしい姿は、私の罪がさばかれた姿。主が代わりにさばかれてくださった。「あなたにはできない。」「あなたがたは黙っていなければならない。(出エジプト14:14)」と言って、主ご自身が戦ってくださった場所十字架。私は息を止めて、主の愛を見る。今日もその十字架を見上げるハート

罪人だから毎日、心ならずも罪を犯すチューことばで行動で心で。それでも毎日悔い改めのチャンスが与えられている雷。そして毎日、悔い改めた以上の恵みが降り注がれるびっくり。ああ、本当に驚きだ。主よ、あなたをおいて私はどこへ行けましょう。

間違っても赦され愛されてるって、なんて素晴らしいんだろうハート。「間違わないように」と考えること自体がたかぶりだった。それは不可能というもの。構えて緊張して良く生きなくていい。ただ私の中のキリストを喜ぶ。なんて解放なんだ。

いつくしまれて生きるって、抱きしめられて生きるって、なんて幸せなんだろう気づき。これがクリスチャン。キリストの中に住まう。

主は罪を赦し、すべてのことに解決を与えてくださる方まじかるクラウン乙女のトキメキ。キリストの支配の外で、私たちに起こることは何もない。今日、また私たちは奇跡の1日を歩いていく。完全な解放の道。根源的な喜びの道。主についていく冒険の楽しみに満ちた道。ハレルヤ爆笑!!

私は新しく造られた者
神が喜び楽しむ者
私はイエス様の中に
イエス様は私の中に
今日もみことばで交わろうハート

Reading the Bible is not about checking a box - it’s about building a relationship with Jesus!