2024年3月3-5日 聖書通読63-65日目
みことばで神様と交わろう
ロマ11-13、民数7-12、詩編27-28篇
死と人の間の境界。その扉の開け閉めは、人には任されていない。人はあらがうすべもなく、扉が開けばそこへ飲み込まれていくしかない。「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。(Ⅰサムエル20:3 )」人はいつでも「風の前のちり(詩編18:42)」になりうる。
森美術館の展示の中に、「人間の塵」という作品があった(写真を撮ってもいい作品だった)。要は、遺灰。
アーティスト本人のものだったか。隣に「彼はアーティストだった」から始まる、この塵の情報が列記されている。それも含めた作品ということらしい。(後で調べたら、作家は女性。今90代でNYにご健在。遺灰は別の人のものだけど、誰のものかは明記されていなかった。)
「神である主は、その大地のちりで人を形造(創世記2:7)」られた。神は人を愛され、ご自身の霊をそこに吹き込まれたが、人は神に背を向け「必ず死ぬ(創世記2:17)」者となった。それゆえ、「すべての肉なるものはともに息絶え、人は土のちりに帰る。(ヨブ34:15)」たとえ、今若くて元気であったとしても、いつかはちりに帰る。「彼の骨は若さに満ちていても、彼とともに土のちりの上に横たわることになる。(ヨブ20:11)」人は神の霊を入れる尊い器として造られたのに、役に立たない器となった。
そんな人間を見つめる神の目は、私の考えをはるかに超えてあわれみに満ちていた。「滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれた(ロマ9:22)」神だった。そればかりか、「主は 私たちの成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを 心に留め(詩篇103:14)」、神ご自身が人となって、私たちを救いに来てくださった。十字架の上にいのちを散らし、罪の代価を代わりに払い、私たちに、再び神の霊を入れる器となる道を開いてくださった。その方が主イエスキリスト。信じる者は今、神の霊の宿る器となった。その聖霊が今、内側から真理を教える。それゆえ「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。(ヨブ19:25)」私も、再び来られる主イエスキリストを待ち望む者とされた。
そのすべては、私のしたことではない。私に何の功績もない。イエス様を主と受け入れたことさえ、それはただ恵みによる。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。(ローマ11:6) 新共同訳」イエス様に出会った後の人生は、ただ恵みで動かされる人生だ。
その恵みはあまりに素晴らしい。ああ、こんな世界があったなんて。今、その恵みを分かち合うことを願う。なぜなら、この地は「敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って(Ⅰペテロ5:8)」いる地だから。悪魔が食べるのは何かそれは何と、人間なのだ。神がいのちをかけてくださった救いを拒絶するなら、主はその拒絶の「証言として、足の裏のちりを払い落と(マルコ6:11)」すようにと言われたのだ。捨てられたちりは、「一生、ちりを食べる(創世記3:14)」と呪われた悪魔の食べ物となってしまうのだ。
ああ、そんな恐ろしさに反して、主イエスキリストの贖いを受け、聖霊の宿る器となった者たちは、主イエスキリストの恵みを語るようになる。そのことばを聞いて「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。(ダニエル12:2)」ああ、主よ、「主は、弱い者をちりから起こ(Ⅰサムエル2:8)」し、栄光を与える方です。どうぞ私たちを助けてください。あなたの恵みを語れるように。分かち合えるように。多くの人が目を覚まし、主イエスキリストの喜びに入れるように助けてください。「お救いください、あなたの民を。 祝福してください、あなたの嗣業の民を。 とこしえに彼らを導き養ってください。(詩編 28:9) 新共同訳」
主は必ず祈りに応え、助け導いてくださる。私たちに与えられた重荷は苦しい重荷とはならない。主が助け、そこに喜びと驚きと感動が重ねられていく。主との深い交わりに入る聖なる重荷となっていく。何かをしてもしなくても、永遠の恵みに満ちた、いのちの道を進んでいく。ハレルヤ
私は新しく造られた者
神が喜び楽しむ者
私はイエス様の中に
イエス様は私の中に
今日もみことばで交わろう
Reading the Bible is not about checking a box - it’s about building a relationship with Jesus!