2024年3月1-2日 聖書通読61-62日目
みことばで神様と交わろう
ロマ9-10、民数3-6章
「人がどこから来て、何をして、どこへ行くのか」意識するしないに関わらず、人はその答えを得ようとする。
一昨日、私はその探究を見た。そこは地上53階。前々から行きたいと言っていた娘に付き合った六本木の森美術館。
たまたまやっていたのは、開館記念20周年の「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」という記念展示。それは「私たちとは誰か、地球環境は誰のものなのか」という問いかけがテーマだった。そこで見たのは様々な主張、あらゆる形の表現。叫びがあり、怒りがあり、観察があり、疑問があり、沈黙があり、死があり、あるいは何かへの期待があった。
「私たちとは誰か、地球環境は誰のものなのか」ああ、この答えは、人を見ても、地を見ても、決して見出すことはない。人の限界を超えようとするなら、見えない世界に向かうしかない。その試みは、いくつもの作品に見られた。しかし、見えない世界へ伸ばされた手に握り返してくるものは、この世の神々の手だった。作品を鑑賞しながら、そのメッセージを読んでいく。神事を行いながら作りましたという作品もあり、啓示を受けて作ったというものもあり、神々のことがタイトルに明記されているものもあった。ある意味、とても興味深かった。
「人がどこから来て、何をして、どこへ行くのか」人にその答えはない。
では、そのような「知恵はどこで見つかるのか。悟りがある場所はどこか。人にはその価値が分からない。それは生ける者の地では見つからない。(ヨブ28:12)」
「では、知恵はどこから来るのか。悟りがある場所はどこか。それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠れている。(ヨブ28:20-22)」人も動物も地も知らない。誰も何も知らない。
「人がどこから来て、何をして、どこへ行くのか」これを知るのは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ15:10)」と言われた方ただ一人。すなわち主イエスキリスト。この方が奥義。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。(ロマ9:5 新共同訳)」「神は知恵の道をご存じであり、神こそ、それがある場所を知っておられる。(ヨブ28:23)」
神であるイエス様は、人間が呈示するあらゆる問いを軽く超えて、信じる者たちを導かれる。私たちが納得しようがしまいが、信じる者を、確実に正確に導く知恵と力がイエス様にはある。それゆえ、願い求めよう。イエス様、「あなたの真理に私を導き 教えてください。 あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。(詩編25:5)」
イエス様は願う者たちを抱き励まされる。「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。(箴言8:34)」ああ、主よ、願います。「みことばのために門を開いて(コロサイ4:3)」ください。
あらゆる問いを超えて、あらゆる疑問を超えて、あらゆる混乱を超えて、イエス様は信じる者を着実に導かれる。それは私たちのイマジネーションの限界をはるかに超えた、素晴らしい恵みの世界。それを確信させるのは御霊とみことば。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ(詩編34:8)」ハレルヤ