2023年8月24日-9月10日 聖書通読
木曜は 旧約: 預言書
金曜は 新約: 福音書
土曜は 新約: 手紙
今日もみ言葉で祈ろう
エゼキエル25-36、ルカ22:63-24、マコ14-16、マタ26-27:44、黙示録15-22、Ⅰヨハネ1-3:6、レビ14-24、Ⅱ歴代誌10-20、詩篇73-76、ヨブ1-3章
京浜島つばさ公園に行った。ドライブしたい主人に付き合って。羽田空港の隣の公園で、目の前で飛行機の離発着が見える。カフェがなさそうだったから、家で淹れたコーヒーをポットに入れ、友人お手製のチーズケーキもクーラーバッグに入れて。
まだ暑いのに公園か〜と思っていたら。「飽きたら出る。多分10分もしたら飽きる。オタクじゃないから」と言っていた。ほっとした。にしても、10分って。
つばさ公園は、ひと気のない、細長い公園だった。小さなバーベキュー場があって、おじさんが1人焚き火をしていた。目の前で飛行機がどんどん着陸する。もっと遠くでは飛行機がどんどん飛び立っている。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」って感じだ。
ああ、行ったり来たりする人生の旅の目的は何だろう人は知らない。どんな知者も、どんなに権勢を誇った人も、誰も知らない。それを知る方はただ一人。創造主、すなわち、主イエスキリストだ。
この方のなさったことは、人の考えをはるかに超えていた。この世界の物差しで生きる人間には理解できないこと。私たちの想像が追いつくこともできないことをなさる偉大な方が主イエスキリストだ。
主は多くの奇跡を起こされた。それは神でなければできないことだった。弟子たちはそれを間近で見て、驚嘆した。「この方はキリストだ」と思わざるを得ない信仰も与えられた。しかし、それでもなお、信じられないことがあった。誰一人信じなかったこと、それが主イエスキリストのよみがえりだ。
死んだ者が一時的に蘇生する話はたまにある。しかし、結局その人たちもまた死ぬ。そのようなこととは全く違うことがイエスキリストのよみがえりだ。「週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。(マルコ16:9)」でも、弟子たちは「イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。(マルコ16:11)」
天使は言った。みことばを思い出すようにと。「主がお話しになったことを思い出しなさい。(ルカ24:6)」イエス様はご自分の死について、はっきりと語られていた。「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。(ルカ24:7)」しかし、弟子たちは「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。(ルカ24:11)」たわごとだと思っていたのだ。
今日を生きる私たちはどうだろう。聖書に書かれたことを「たわごと」と思うときはいないだろうか。
弟子のうち「二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。(マルコ16:12)」しかし、「その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。(マルコ16:13)」
「その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。(マルコ16:14)」
ああ、主よ、私の不信仰と頑なな心を告白します。足らない信仰を助けてください。今ここに、よみがえりのキリスト・イエスがおられ、すべてを共にしてくださっていることをいつもいつも見ることができますように。願う者の心の目を開いてください。
主はすべてができる方。主は「確かで真実な方(黙示録19:11)」。「神のことば」と呼ばれ(黙示録19:13)」る方。「王の王、主の主(黙示録19:16)」である方。その方こそ主イエスキリスト。私の生きる目的。ハレルヤ
私は新しく造られた者
神が喜び楽しむ者
今日もみ言葉で祈ろう
主の中で自由に歩もう
私の中で自由な主の働きを!
John 17: 6 ““I have revealed you to those whom you gave me out of the world. They were yours; you gave them to me and they have obeyed your word.”