2021年3月11日聖書通読
木曜は旧約: 預言書
今日もみ言葉で祈ろう。
イザヤ51-55章
昨日は転職活動をしている後輩がうちに来た。それで、2年前に転職した主人の話に。
主人はその時の職務経歴シートを出しながら言った。「こんなに輝かしい経歴なのに、なんで落とされたんだろう」(思うのは自由です。。。)
そう、主人は書類選考で落ち続けていた。。。長年勤めた会社を退職し、その先が決まらないまま4ヶ月間、失業保険をいただいた。「100はいかないと思うけど、50社以上は書類選考で落とされた」と。あの頃、ノートに列挙した会社名の隣に「❌」と書き続けていた主人。
クリスチャンでなければ、数カ所だめでも気が滅入ってしまうだろう。あるいは強い信念のもとに歯を食いしばって道を開こうと試みるか。
しかし、主と歩く者の道はそのどちらでもない。目の前には、ただ主が備えた道が広がっている。主が備えた道だから、主に聞かなければ、その道を見出せない。主は言われる。「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、私に聞け。(イザヤ51:1)」主がくださるのは恵みと平安。「そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。(イザヤ51:3)」もちろん、心弱くなる時もあるけれど、そのたびごとに、主のみことばに立ち返ることができる。
主は言われる。「わたしの義は絶えることがない。義を知る者たちよ、わたしに聞け。(イザヤ51:7)」主にあっては、年齢も、能力、倍率も関係ない。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──(イザヤ55:8)」ただ主が備えたところに運ばれる。主に頼る者は「パンにも事欠かない(イザヤ51:14)」。
主は言われる。「わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかば(イザヤ51:16)」うと。主のことばは、この世の何より確かなことば。主が迫る。「わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。(イザヤ55:11)」
職が決まるまでの期間、主人はMちゃんとともに、病床のSちゃんを支え続けた。彼女のために祈りながら、主人もMちゃんも主の声を聞く者へと変えられていった。Sちゃんが天に召されたとき、主人は祈りの中で「あなたが(葬儀の)司会をしなさい」と言われたらしい。その通りに司会を頼まれ、急きょ式次第の準備をした。式の朝は、書類選考を通った会社の最終面接だった。
準備する余裕なんてなかったと思うが、面接について主に聞くと、「クリスチャンであることを言いなさい」と言われたらしい。いざ、面接に行ってみると、最初の質問がこうだった。「日曜に休みを希望していますが、どうしてですか?」日曜が一番忙しい仕事だからだ。主人は答えた。「私はクリスチャンなので、日曜は礼拝に行っています。」たくさんの応募があったにもかかわらず、その会社に行くことになり、日曜は礼拝をささげている。
1年半たった今、しみじみと主人が言う。「つくづく主が導いてくださった職場だと思う」と。ああ、私も日々、いろいろあるけれど、ただ、主に聞こう。主に聞きながら進んでいこう。
主が言われる。「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。(イザヤ55:12)」アーメン ハレルヤ
私は新しく造られた者。
神が喜び楽しむ者。
今日もみ言葉で祈ろう。
主の中で自由に歩もう。
私の中で自由な主の働きを!
I make my mouth do its duty. I see to it that I speak in line with God’s Word. Then I hold fast to my confession.