2021年2月12、13日聖書通読
金曜は新約: 福音書
土曜は新約: 手紙
今日もみ言葉で祈ろう
。
マタイ14-16、ロマ11-12章
みことば一つ守ることがとても難しい時がある
。昨日、こう書いた。
あれこれ自分で動こうとせず、主の前に静まろう
。主は言われる。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ30:15)」
その後だ
立ち返って落ち着いていられないようなこと勃発
。それは静かにして信頼することが難しいことだった。私の心はあちこちへと揺れ動く。これをどうしたらいいだろう
このままだとどうなっちゃうか
様々に湧き上がる考えを、モグラ叩きのように引っ込める。いや、無理〜
。
「主よ、あんまりです」と私は泣きついた
。それで思うことを全部主に言って、昨日のみことばをもう一度読んでなんとか寝た
。
異邦人の女がイエス様のところへ出て来て「私をあわれんでください。(マタイ15:22)」と言ったように、私も今日一日、主にすがった。「主よ、私をお助けください。(マタイ15:25)」
あー、つくづく思う。私自身には確かなものは何もない
。私の内で確かなもの。それはただ主イエスが十字架で死をもってなしてくださった贖いと、死からよみがえられた復活の力
。そのことによってこそ私は生きる。だから、確かな主にただすがる。
異邦人の女が、主に切に「パン屑でも」と求めた話(マタイ15:22-28)を読みながら、昨年、友人がしてくれた預言(ロマ12:6)を思い出した
。私が長いトンネルの中を歩んでいた時のもの。それはこんな風に始まる。
「イエス様がテーブルの椅子に腰掛けていて、あなたがその側でひざまずくようにパン屑を拾っている(通り過ぎる人々はその屑には見向きもしない)。しかしよく見ると、それはパン屑ではなく全てが小さな宝石ではないか!ひとつひとつを大切そうに拾い集めるのを、柔らかな笑顔で嬉しそうに見つめるイエス様。その宝石のひとつひとつがみことば。ひとつたりともおろそかにせず、貴重なものとして、おしいただきながら集める・・・」と続いていく。それは忘れることのできない預言となった
。
以来、私は食卓の下の子犬(マタイ15:27)になった。尊いみことばを一つもこぼさず受け取りたい、そんな風に願うようになった。
今日、同じ箇所を読んで、ハッとした
。バプテスマのヨハネの首が切られ、律法の時代、古い契約の時代、すなわち、自分で努力する時代は終わった。その後だ
主はパンを必要とする群衆に「彼らが行く必要はありません。(マタイ14:16)」と言われた。自分で得させたのでなく「あげなさい(マタイ14:16)」と言われたのだ
。主は「飢えた者にパンを与える方(詩篇146:7)」。
主は5000人にパンを与えた。「人々はみな、食べて満腹した。(マタイ14:20)」そればかりじゃない
。「余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。(マタイ14:20)」
十二のかごのパン切れ。それは何か
私はこう感じた。それはその場にいなかった人たちのために主が備えてくださったもの。つまり、私たちのためにとっておかれたもの
。パンはみことばであり、主ご自身。主は言われた。「わたしはいのちのパンです。(ヨハネ6:48)」パン屑もパン切れも私の前に一気に輝き出した
。
あー、主よ、求めます。求めます。私たちがそれをいつも食べることができるようにしてください。そして、私たち異邦人に注がれる素晴らしい祝福が「イスラエルにねたみを起こさせ(ロマ11:11)」、彼らが「彼らの食卓(ロマ11:9)」の上のパンに気づき、ついにはすべての民が「みな救われ(ロマ11:12)」ますように
。
主はパン屑を求める私に「あなたの信仰は立派です。(マタイ15:28)」とは言われなかったけれど
、「願うとおりになるように(マタイ15:28)」祝福してくださった。私の目の前の問題は、午後のまだ早い内に解決された。いや、むしろ、それがあってかえってよかったという方向に進んだ。これは本当に驚きだった。主のみわざとしか思えないことだった
。
ああ、すべて主がなさる。だから、へりくだって主を求めよう。主が私たちに言われる
。「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。(詩篇81:10)」
私は新しく造られた者。
神が喜び楽しむ者
。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう。
私の中で自由な主の働きを
!
How did God love us? Did He love us because we deserved it? No. Godloved us while we were yet unlovely. God loved us while we were yetsinners!
