聖書通読230、231日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
金曜日は福音書
〜。
土曜日は手紙
〜。
ヨハネ5-6、Ⅰテモテ1-3章
『西洋建築史』を愛読する主人の希望で、ドイツ西部にある、マリア・ラーハ修道院へ
。そこには、900年以上、途切れることのない祈りがあった
。歴史の中で、世界の至る所で捧げられてきた聖徒たちの祈りに、私たちの祈りも交じり合う
。全てが香となって天の父のもとへ。「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(黙示録8:3-4)」
私たちに命を与えた天の父、主なる神。私たちは「まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たことも(ヨハネ5:37-38)」ない。しかし、主は私たちを知っている
。主が言われた。「わたしはあなたがたを知っています。(ヨハネ5:42)」
私たちの感じ取るものはかすかでも、主からは全てが見えている。その方に心を開くとき、私たちの内に光が射し込む
。そして、私たちは真理を行う者となる
。「真理を行う者は、光のほうに来る。(ヨハネ3:21)」ああ、自分の心、行い、全てを、光のもとにさらけ出そう。どうせ全部知られているのだから
。それでも「わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言われるのだから
。
罪ある者は、自分の罪を知ることを恐れる。それは無意識のうちに。かつて私もそうだった
。些細な罪は誰でもあるだろう、自分はそれほどでもないだろう、罪なんて、暗いことを考えるより、もっと明るいことを考えようよ、発展的建設的なことに目を向けようよ、なーんて思っていた
。しかし、み言葉によって初めて知ったのだ。「愚かな者の安心は身を滅ぼす(箴言1:32)」ことを
。
真理のみ言葉に照らされなければ、決して自分の罪を見ることはない
。自分の考えなんて、極めて都合のいいものだった。自分の犯した罪は忘れ、ちょっとした善行はしっかり覚えていたりして。あー、たちが悪い
。「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて光のほうに来ない。(ヨハネ3:20)」そして、ますます自己満足と闇の中にはまり込んでしまうのだ
。
どんな恥ずかしい過去があっても、このことを知ろう
。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。(Ⅰテモテ1:15)」そして、私は変えられた。汚いものを抱えながら「私は割ときれいです、きっと。。。」とつぶやく者から、「ああ、主よ、汚い私をきよめてください!!!」と叫ぶ者へと
。その恵みは私個人にとどまらない。「私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったから(Ⅰテモテ1:16)」。
アーメン
。主よ、私たちを見本として用いてください。こうして、歴史は流れてきたのだ。私たちは先人たちの見本を見ながら、主を仰ぐ。今日も途切れることのない祈りを捧げよう。途切れることのない恵みの道を歩いて行こう。主とともに
。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
Paul didn’t say, “I’ve got a revelation,” or “the Lord told me,” or “the Lord revealed it to me.” He said, “I perceive.” This was just an inward witness that he had. He perceived something spiritually.


