聖書通読190、191日目。
今日もみ言葉で祈ろう。
日曜日は律法〜。
月曜日は歴史書〜。
レビ13-15、Ⅱ列王6-10章
現実のいろいろな問題に立ち向かう時、見える世界で私たちにできることは少ないかもしれない。しかし、見えない世界でなせることは無限だ。そして、それこそが私たちのあらゆる問題を根本的解決へと導く。
私たちが向かうのは無限の可能性に満ちた世界、すなわち、神の御座のある所。主は私たちを「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天のところに座らせてくださいました。(エペソ2:6)」主イエスの血潮を通し、今日も御座の前で賛美し、礼拝を捧げよう。
自分の足りなさは百も承知だ。しかし、私たちの大祭司、イエスキリストはそれをあわれんでくださる。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4:15-16)」だから、「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこう(ヘブル4:15-16)」。
私も今、病床にある友人のために、どうしても主の助けが必要だ。私の心を痛みの方向に使わず、私の心を信仰の方向に向ける戦いを今している。心が痛めば痛むほど、み言葉を求め、祈り、主の御座へと近づこう。
私たちを動かすのは、自分の気分や感情ではなく、主のみ言葉と主の霊だ。だから、今日も自我に死に、主の豊かさを受け取ろう。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)」私たちの中で主がさらに豊かに働けるよう。私たちの祈りが強められ、霊の世界を動かすよう。
だから、涙は祈りに変える。天使が全部、皮袋に入れて主の所に持って行ってくれる。「どうか私の涙をあなたの皮袋にたくわえてください。(詩篇56:8)」この涙は、感情の涙ではなく、主の御心がなされるために捧げる涙。捧げ物だ。「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。(詩篇128:5)」そして、私たちはさらに大きく主を賛美しよう。
激しい試練の只中で主は言われる。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。(Ⅱ列王6:16)」主によって開かれた信仰の目で、主の火の馬と戦車が私たちを取り巻いて山に満ちているのを見る(Ⅱ列王6:17)。山は今、目の前に立ちはだかる問題だ。そこには必ず主の助けがある。
だから、決して愚かなことを言ってはいけない。「見よ。これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。(Ⅱ列王6:33)」と嘆いた者は、その口の言った通りになった(Ⅱ列王7:20)。
私たちはそうではなく、この口はいつも無限の可能性をくださる主をたたえよう。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。(詩篇34:1)」
今日もみ言葉で祈ろう。
主の中で自由に歩もう。
私の中で自由な主の働きを!
A new heart also will I give you, and a new spirit will I put within you: and I will take away the stony heart out of your flesh, and I will give you an heart of flesh. And I will put my spirit within you . . . .—EZEKIEL 36: 26,27