聖書通読157日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
水曜日は詩歌
〜。
詩篇66-68篇
GWに山口に行った時、すごい地名を見た。その名も「荷卸峠」
。信じる私たちのためにある名前
ぜひ我が家にも「荷卸峠」を
。というわけで、ちょっと段が上がっている洗面所を「荷卸峠」と命名。手を洗うたび、荷をおろしてみようかな
。「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ(詩篇68:19)」
私たちは知らない内に、人生における、たくさんの重荷を抱え込む。健康のこと、心のこと、仕事のこと、家族のこと、誰かのこと、私たちの中の優しさや責任感が私たちに多くの荷物を負わせていく🧳。自分でどうすることもできないのに、自分で何かをしようとして、心配したり、がっかりしたりしながら、ふと気づくと、たくさんの荷物に囲まれ、身動きが取れなくなったりする。主はそれをやめよという
。見えない敵は荷物の陰からちょろちょろ現れ、現状を示しながら、私たちの不安をあおったり、私たちを責め立てたりする
。私たちが翻弄されるように隠れて働くのだ。
主は私たちを愛で招かれる
。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」
主は言われる
。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55:22)」アーメン!子供のような心で応答する。「はい、主よ!全ての重荷を主に預けまーす
!!!」これは私たちが何もしないのとは違う。何もしなければ、そもそも預けられないのだ
。聖霊に導かれながらする祈りによって初めて、私たちは自分の重荷を主に預けられるのではないかと思う。
重荷を背負ってるかどうか、見極めるのは簡単だ。それは心の重みとなって現れるから
。自分の何かを心配する思いが来たなら、祈って主に預けよう。主のご計画に信頼する信仰を受け取ろう。人のことを何か判断する思いが来たなら、それを自分の重荷とせず、とりなしの祈りに変えよう
。それは自分にも相手にも宝となる
。
重荷を預けて、私たちがすることは
重荷を預けて、私たちがすることは、重荷にならないこと〜
。それは、主を愛すること。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(Ⅰヨハネ5:3)」
「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。(Ⅱヨハネ6)」
結局、聖書66巻が教えることは、2つのことに集約される。①神を愛すること、②人を愛すること。この2つを体得できるように、主は私たちを練り上げる
。「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。 (詩篇66:10)」
そして、時には、いろんな体験もする
。「あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。(詩篇66:11-12)」どんな所を通ったとしても、主が導かれるのは豊かな所
。
ああ、主の栄光をほめ歌おう
。「全地よ。神に向かって喜び叫べ。御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇66:1-2)」
一日一日、重荷をおろし、神の愛のうちに歩もう
。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
You don’t need to be preached to about do’s and don’ts; just let your spirit dominate you. God will enlighten you through your spirit. Let the new man on the inside be the dominant one.
