聖書通読155、156日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
日曜日は律法
〜。
月曜日は歴史書
〜。
出エジプト37-40、Ⅰ列王5-9章
ピアノを習ったことのない私🎹。両手で違う音を出すなんて無理〜なんて、何十年も言ってきた
。けれど、主と共にある私たちに無理なことなんてなく
。たどたどしくとも、最近、両手で弾けるようになった。そして、ちょっとでもスムーズにできると、「ねー、すごくない?すごくない?」と騒ぐ
。
鍵盤のドレミの位置は、誰でも覚えられる。しかし、ドレミを知っていることと、美しいメロディを奏でることとは別物だ
。それで思った
。「あー、み言葉と一緒だ
」と。頭で分かることと、身につくこととは全く異なる。
み言葉を知っていることと、自分が変えられていることは別物なのだ
。どれだけ、聖書の世界に精通しようと、み言葉が私の内に命となっているかは、また別のことなのだ
。
種として蒔かれたみ言葉が、自分の中で、芽を吹き、根を張り、命として動き出すのは、私たちの日々の生活の場だ。特段、目立ったことがなくとも、主は主のみわざをそこで行われている
。毎日毎日だ。私はどれだけそれに気づけているだろうか
どれだけそこに主の臨在を感じられているだろうか

改めて、自分の足りなさを思った。しかし、この感覚はある意味、嬉しい
。自分の内にこの感覚が来ると、主の前にひれ伏すことができるから。「ああ、主よ。私にはできません。」と、主に頼る
。
ソロモンが神殿建設を終えた時、「主の栄光が主の宮に満ちた(Ⅰ列王8:11)」。しかし、今、主は恐れ多くもこう言われる
。「キリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなる(エペソ2:22)」。
そう、私たちは「神の神殿であり、神の御霊が」私たちに「宿っておられる(Ⅰコリント3:17)」のだ
。
ああ、主よ、ただ主イエスの血潮で私たちをきよめてください
。きよめられた心に、知恵を注ぎ、この目とこの耳を開いてください。あなたの奇しいみわざを悟れるよう。そして、今日も私たち一人一人と個人的に「会見(出エジプト25:22)」してください
。私たちに「命じることをことごとく(出エジプト25:22)」お語りください。私たちの内に「主の栄光(出エジプト40:34)」が満ちあふれますように
。
全ては主がなさる
。なんてことのない日常に、どんな主との交わりをもてるだろう
。私たちが華々しい成果を願う時、主が与えたいのは静かな悟りであるかもしれない。私たちが普通のことを願う時、主は私たちを冒険の道へ進ませるかもしれない
。
いずれにせよ、ハンドルを握るのは私ではない
。聖霊が全てを教え導かれる
。主に全てを預けよう。主に示されるところで、主に示されることを楽しもう。そこで、私たちが体験するのは、何にも代えがたい、深い主の臨在
。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
. . . Walk in the Spirit, and ye shall not fulfil the lust of the flesh.—GALATIANS 5: 16
