聖書通読48、49日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
金曜日は福音書
〜。
土曜日は手紙
〜。
マタイ17-19、ロマ13-14
目上の人をどう見るか
教会においても、職場においても、また、家庭においても、神はそこに秩序をおいた
。主は、秩序の神であり、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道3:11)」
そして、上に立つ者への権威も神が与えた
。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ロマ13:1)」だから、私たちがキリストにあって誰かに従う時、それは人への従順でなく、神への従順を表すものとなる
。
祈りながら自分を振り返ってみた
。私の歩みは、友人たちの目にはまぁ従順に見えるようだ
。従順の大切さを聖書は強調するから、確かにそのことがいつも心にある。だから、自分でもそう歩んでいるように思っていた
。
しかし、ありがたいことに、み言葉の光は強烈だ。まばゆい光が私を照らす
。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119:130)」
み言葉をもって祈るうちに、私は恥ずかしさと何とも言えない痛みを感じた
。よかれと思ってする中に、知らないうちに自我が頭をもたげていたんじゃないかと思ったから
。
それは、上に立つ人に、気を使わせたり、心苦しい思いをさせる時
。形としては従順でも、心に自分も感知し得ない高ぶりと自我があったのではと問うてみた。私の心は恥ずかしさと痛みをもって反応した
。
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル13:17)」
私は心を痛めて悔い改めた
。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。(ヘブル4:13)」「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。(詩篇139:1)」私の悔い改めを受け取ってください。私を聖めてください
。
心は痛み、涙が出るけれど、心の奥底には「よし、これでいい」という静かな確信。自分を崩し、真理に進む、それは何ものにも変えがたい喜びだ
。私たちは「神のことばと祈りによって聖められる(Ⅰテモテ4:5)」。一生続く喜びの道
。
主は言われる。「権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。(ロマ13:2)」
見えるところで判断はできない
。「神は霊(ヨハネ4:24)」。見えないものを見通す方。見えない方は見えない時をも見ておられる
。
今がどのような時であるか、主はすべてご存知だ
。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。(ロマ13:11)」「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(ロマ13:12)」
主を信じ受け入れるなら、私たちの置かれる環境すべてが聖化を促す
。目上に置かれる人はなおさらだ。その人は主がくださる宝の取り次ぎ役だ。その人に従順にせよと主は言われる。「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだから(ロマ13:4)」
。
神はどこまでも私たちを愛される
。愛で敷かれる全ての布陣。神の愛を受け取ろう。そこから来るすべての益を受け取ろう。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 (マタイ18:3-4)」
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
Therefore we are buried with him by baptism into death: that like as Christ was raised up from the dead by the glory of the Father, even so we also should walk in newness of life. —ROMANS 6: 4
