雅歌13、14日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
雅歌5章-4
そう、私は打ち砕かれていた
。それは今月初め、通読終了前後のこと。主に導かれ、今までより深いところまでの悔い改めができた後、私はまるで砕かれたまま、そこに一人残されたかのようだった
。「私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。(雅歌5:6)」
自分を頼みにできないことを思い知り、といって明確な主の導きを感じたわけでもなく、私はどう祈ったらいいかも分からなくなった
。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。(雅歌5:6)」
心はつらい。力も出ない。しかし、その状態を静かに見つめる自分もいる
。これが一時的なこともわかっている。大事なプロセスの一つであることも分かっている。どう進めばよいか分からず途方にくれているが、そんな私を内側から次々とみ言葉が支える
。「途方にくれていますが、行きづまることはありません。(Ⅱコリント4:8)」
ああ、主はみ言葉の神
。み言葉が私の内にある以上、主がどこかへいってしまうなんてあり得ない
。み言葉は主ご自身。いつでも、深く、力強く、私たちを支えてくれている
。その言葉は単なる励ましではなく、私たちの目の前の壁を打ち破り、私たちのために道を開く力
。まさに主ご自身がそこにおられる。私たちはそこに賛美と祈りで応答する
。どこか外に神を探さなくていい。
私たちを主導するのは、感覚、気持ちじゃない
。私たちを導くのは主と主の言葉
。心がどう思おうと関係ない。時には置かれたまま静かにしていよう。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。(詩篇37:7)」主には主のご計画があり、主には主の時がある
。
だから、愚かなことは言うまい。「高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。(Ⅰサムエル2:3)」
私の「耳はうしろから、これが道だ、これに歩めということばを聞く。(イザヤ30:21)」 その声は言う
。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい(ルツ3:18)」
主のみ言葉は私たちを癒し、私たちに新たな知恵と力を与える
。この歩みの一歩一歩によって、主は私たちを確実に建てあげている
。その主に信頼しよう。状況や感情を超えたものがある。「大事なのは新しい創造(ガラテヤ6:15)」
。
あー、主のみ言葉は甘い。私の心に希望と勇気をくれる
。「そのことばは甘いぶどう酒。(雅歌5:16)」
そして、甘いみ言葉を食べ、内側が変革される時、私たちは苦さをも体験するのかもしれない
。主はみ言葉によって、私たちの魂を癒し、時には手術をしてくださるから
。「私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。(黙示録10:10)」
しかし、それでもなお、私は求める。主との関係が深まることを。私は主に飢え渇く
。「飢えている者には苦い物もみな甘い。(箴言27:7)」
心が砕かれることも、悔い改めに導かれていくことも、えーんと泣くことも、途方にくれて動けなくなることも、主の中にあって、苦い物もみな甘い
。ハレルヤ!主を賛美する。
私たちの主は、考えられないほどにすごいのだ。信じがたいほどに素晴らしい

。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
The soul, you see, is not born again. The saving of the soul is a process.The Epistle of James was written not to sinners, but to Christians. And James was telling us that our souls are not saved yet. James 1: 21 bothered me for some time, until I found out the difference between the spirit and the soul.
