雅歌1日目
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今日もみ言葉で祈ろう
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雅歌1:1-4
なぜだか、通読の節目には生と死が交錯する
。これまで通読の節目に、私の誕生日が2回、葬儀が2回、そして、今年の通読最終日の昨日は主人の伯母が他界した
。
特別にかわいがってくれた伯母に会うために、主人は先週も島根へ帰っていた
。言葉は既に交わせず、自分の描いた絵にイエス様のことを書いて、叔母に見せ、祈ってきたらしい。全てを主の御手に委ねよう。
私たちは誰しも、自分も気づかぬうちに、この歴史の主人公になっている
。私たちの内に主がおられるから、私たちが動くと、主も動く。いや、主が動くと、私たちも動かされるのか。どちらにしても、主と私たちは一体なのだ
。だから、今日も主の前に恐れかしこみ、自分に関するあらゆる権限を主に明け渡そう
。
主は全ての人を愛される。そこにはなんのえこひいきもない
。「神にはえこひいきなどはない(ロマ2:11)」。私を100%の愛で愛される主は、隣の人をまた100%の愛で愛される。ここに人の愛と神の愛の決定的な違いがある
。
主は全ての人を愛され、多くの者が主を愛する。「おとめらはあなたを愛しています。(雅歌1:3)」
しかし、主は私たちをまとめて愛することをせず、一人一人を奥の間、つまり至聖所に引き入れてくださる
。それは私たちに与えられた、最高の特権だ。「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。(雅歌1:4)」
私たちは祈りの中で、深い主との関係に入っていく
。イエスの御名と血潮の力が、私たちを垂れ幕の内側へと引き入れる。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。(ヘブル10:19-20)」
あー、驚きだ。知れば知るほど驚きだ
。そこで私たちは主と個人的に語り合い、主しか知らないことを打ち明け、個人的なみ言葉をいただき、個人的な愛と力をもらって生きていく
。
私たちがこの世に生まれ出る時も、この世を去る時も、その瞬間を誰とも共有することはできない
。たった一人の旅路だ。いや、そうではない。そこにあるのは、ただ一つ。神と私の関係だ
。
生と死の瞬間は、そのことがひときわクローズアップされるが、本当は、日々の生活こそ、そうなのだ
。私たちはこの世を生きる時、ただ一つの関係を大事にしながら生きていこう。
そして、それは求める誰もが得られる特権
。「私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。(雅歌1:4)」 そうして、皆が満たされて、嬉しいね、主は素晴らしいねと、共に主をたたえ生きていくのだ
。
そのような大事な関係を築いている隣人を、決してないがしろにすることはできない
。その人は、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人(ロマ14:15)」なのだ
。
おお主よ。私の心を、唇をきよめてください
。「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル12:14-15)」
主との関係、隣人との関係、これが私たちの生きる証
。主よ、私たちの全てを守り導いてください。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
Our heart hunger causes us to seek something to satisfy it. Some look to worldly possessions. Some look to false religions of this world. Yet nothing can satisfy this heart hunger but God.
