聖書通読20日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
ロマ12-16、使徒20:7-23章
主に出会った私たちは、光の中を歩いている
。私たちの内側もまぶしい光に満ちている
。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 (ロマ8:1-2)」
ぴんと来なくても大丈夫
。「いのちの御霊の原理」を感知するのは五感ではなく、頭でする考えでもなく、心で感じるものでもないから。
「御霊のことは御霊によってわきまえるものだから(Ⅰコリント2:14)」。
人は、霊、魂、体から成る(Ⅰテサロニケ5:23)
。御霊が語りかけるのは、私たちの魂でも体でもなく、私たちの霊だ。そこから全てが始まっていく
。これ、知らなかったなぁ〜。これがすごいんだなぁ〜。こんな世界があったんだなぁ〜
。
考え、感情、感覚、気分は魂の領域のもの。これをフルに活用するだけでも随分豊かな人生になる。しかし、御霊を感知するのは霊。霊の世界を知ると、人生の豊かさが倍増する
。
今までの人生は、12色の絵の具で描いた絵のようだ
。思いつくまま一生懸命描いて、ちょっと幼稚さを隠せない。そんな感じ
。
でも、霊で主と交わり生きる人生は、無限の色をいただくよう
。ああ、そうか。色は光でできている。私たちの人生に、神の光が入るなら、無限の色彩になるのは当然か
。そうして描く日常は、思いもしない作品へ。画材も画法も主がくださる
。私たちの段階に応じて、驚くような色が来る。チャレンジしながら進む道。私たちの人生は主にあって、高貴な作品となるだろう
。
神の霊が私たちの霊に伝えるものが、私たちの魂に考えや思いとして浮かび上がり、私たちの体によって、言葉や歌や行動となって表現される
。
礼拝を捧げるのも同じだ。私たちの気持ちや考え、やる気など魂によってではなく、もっと深い霊において捧げるもの
。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)」
霊で礼拝するということは、私たちの魂(考え、感情、意志)と体を、霊に従わせるということ
。だから、魂や体は供え物となる
。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ロマ12:1)」
供え物はしゃべらない。魂レベルの主張はいらない
。ただ霊に従うのだ
。
しかし、「霊だからといって、みな信じてはいけません。(Ⅰヨハネ4:1)」
見えないものが全て聖なるものというわけではない
。「サタンさえ光の御使いに変装する(Ⅱコリント11:14)」。
だから、私たちの側でチェックするようにと聖書は教える
。「人となって来たイエスを告白する霊はみな、神からのものです。(Ⅰヨハネ4:2)」
イエスが人の体をもって来られたことを否定する霊、あるいはイエスの力を限定的にする霊は神からのものではない
。
神の霊、聖霊に導かれた時、私たちは完全な自由を得る
。「その方は真理の御霊(ヨハネ14:17)」であり「真理はあなたがたを自由に(ヨハネ8:32)」する。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ロマ8:12)」さぁ、神の御霊に導かれよう
。
この時代、夜はふけて、暗やみが広がり(ロマ13:11)、「暗やみの世界の支配者たち(エペソ6:12)」が街をうごめく。しかし、闇の中でも主は私たちを見つめている
。
暗闇に主は「月と太陽を備えられ(詩篇74:16)」た。たとえ今、どんなに暗い闇を歩こうと、そこに必ず主が、月と太陽を備えている。足元にはみ言葉のともしび。主と共に行く道は、光を受け、無限の色彩を謳歌する道だ
。それが美しい作品となる。ハレルヤ!主を賛美しよう
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で自由に歩もう
。
私の中で自由な主の働きを!
“I believe the law of the Spirit of life in Christ Jesus has set me free from the law of sin and death. And as long as I walk in the light of that law of life, no germ will attach itself to me.”
