聖書通読17日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
Ⅰコリント9-16章
プレッシャーが来た時には、それまで以上に力が注がれるのを待つ時
。昨日どどっと仕事で対処しなければならないことが来た
。「面倒くさ!」って言葉は、私の中で、使わない言葉シリーズの一つだから、口にはしないけれど、そんな思いがチラチラと顔を見せ、ちょっと気が重くなっていた
。
で、朝、祈った。全部主に預けます。やるもやらないも主の知恵によって判断できますように。もしやるなら、主の力によってできますように
。
でも、祈っても、すぐにどうなるわけでもなく
。。。ただ、「やることやりましたよ」みたいな感じで、自分の舌の告白に、ちょっと励まされなかったわけでもないかも、いやそれも思い過ごしかも、みたいな曖昧な感覚だった
。吹き飛ばすまで祈りたかったけれど、そこまでの時間もなく家を出た💨。
でも、数時間後、電車の移動中、あれ
と気づいた。心の重みは消えていた
。それだけでなく、何か心の底の方から、自信が浮かび上がってきているのだ
。不思議だ〜。私は何もしてないのに。。。いつもいつも主がしてくださる
。
世の成功を本気でめざす人は、アスリートであれ、研究者であれ、経営者であれ、政治家であれ、夢を叶えるために、自分の考え、言葉、行動、習慣を徹底的にコントロールする
。あらゆることを自制する。
「闘技をする者は 、あらゆることについて自制します 。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが 、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです 。(Ⅰコリント
世で成功を勝ち取ろうとする人は、日々何かに励んでいる。そこまでするの?というような具体的な行動だったり、全てを良く受け止め前向きなことしか考えないなどのマインド的なことであったり、皆、何かの工夫をして、自分を律しているのだ
。
期間限定の栄誉や喜びのために、そこまでできるなら、永遠の幸せを約束されている私たちは、どれだけ情熱的に歩めるだろう
。少なくとも、主に出会う前にしたこと以上のことは軽くできるはずだ。
時には忍耐もするし、人に譲歩もするし、人を許したり愛したり、それらは世の人もみんなやっている
。でも、どんなに立派な人でもやってないことがあるとするならば、それは、主イエスキリストに頼ること
、誰かのために、主イエスキリストにとりなし祈ること
。
「ですから 、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません 。空を打つような拳闘もしてはいません 。 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます 。それは 、私がほかの人に宣べ伝えておきながら 、自分自身が失格者になるようなことのないためです 。(Ⅰコリント9:25-27)」
信じる私たちは、主を信頼することにこそ、内なる努力を傾注しよう
。自分のからだを打ちたたいて従わせる価値のあることだ。願ったすぐでなかったとしても、もっと良いタイミングを見計らわれる主に信頼する
。思う通りでなかったとしても、もっと良い方法を下ろしてくださる主に信頼する
。
何をするにも、力を入れるポイントがあり、力を抜くポイントがある。それは聖霊が教え導いてくださる。最初はどう動いていいか分からず「頑張っちゃダメなの?でも、努力も必要なの?いったいどっち?」なんて幼いことを思ったこともあった
。でも、主の導きは進んでいる。主に従い歩むうちに、だんだんコツが分かってくる
。
何もしなければゼロだけれど、一歩でも進むなら、それは主にあって30倍、60倍、100倍の実を結ぶ
(マルコ4:8)。1は30、60、100となるが、0はいくらかけても0のままだ。できない理由を言って足踏みするのではなく、できる1を探してみよう
。
生きて働かれる主が、今日も私たちとともにおられ、私たちが何をしても、主はそれを成功させてくださる
(創世記39:23)。
今日もみ言葉で祈ろう
。
主の中で完全に自由に歩もう
。
With our faith, we can plug into the power of God that is everywhere present, and we can put that power to work for us!l
