聖書通読97日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
マタイ21-28章
信じることが大事と分かってる
。
私たちは皆、それを知っている。
でも、この聖句を前にすると、ちょっとたじろぐ
。。。
「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』(マタイ21:21-22)」
信じて祈り求めるものなら、何でも与えられる。うんうん
。
でも、、、ん???
「疑うことがなければ
⁉️」
急に心もとなくなってくる
。
いや、堅い信仰の上に立ってますよ。
でも、疑うことなく、、、か。。。
自分が取り組んでいることに対して、時にちらっと心に来る「大丈夫かな」って思い、大丈夫かな。。。「ひょっとして」とふと不安になることもあるよね
。
もしかすると、私は疑いながら信じてる
?
と、この聖句で立ち止まり、今日1日考えた。
それで、出た結論。
「疑うことがなければ」を考えるとき、2つの側面があると感じた💡。私側と、イエス様側。
私はすぐ私側を考える
。信仰を燃やし、主に集中するようにとか、疑いが起きた時の対処とか。ふと不安になった時は、み言葉で断ち切るとか、賛美するとか、自分の側でできることを探す。これは私側の努力や対処だ。「主よ〜どうしましょう?」と焦って聞く。「私が」どうしたらいいかを聞く
。それも大事。
でも、もっと大事なのがもう一つの側面。それはイエス様側。イエス様が「疑うことなく」と言われる時、イエス様が完全に「疑わなくていい方であること」も意味していると感じた
。私の全てを知り(Ⅰヨハネ3:20)、髪の毛の数も知り(マタイ10:30)、私が話すことを口から出る前に知るお方(詩篇139:4-5)。片時も離さず、私を見つめ、助けてくださる方。死ぬほどに私を愛される方
。主が私のためにしてくださったことを思い出すとき、主がどんな方かに心を向けるとき、主が「疑わなくていい方」であることを思い出す。そうすると、主との間に新たな信頼の回路が開通する。熱いものが流れて来る
。「大丈夫だ」という声を感じられる。主の懐にすっぽり入ってしまう。
やっかいなことが起きたとき、手に余ることを前にしたとき、仕事でめんどうなことをしなきゃいけないとき、考えてみたら、いつも、この方法で勇気や力をもらってきた
。主は必ず「大丈夫だ」と言ってくださるから
。
疑わない努力より、「疑わなくていい主」であることを思い出そう
。心もとない自分を見ず、昨日も今日もいつまでも変わらない主を見よう(ヘブル13:8)
。 主が私のために流してくださった血潮を通し、主の懐にすっぽり入ろう
。主がくださる力によって前進しよう。
今日もみ言葉で祈ろう
。
