アモス1-9、ホセア1-4章
安んじている者、甘んじている者に、聖書は厳しい
。人ごとではない。私もちょっと前まで安んじている者だったから
。(
安らかな愚かな者でした)
アモスが警告するのは、選びの民としての恵みを受けながら、そこに安んじているイスラエルの民
。「シオンで安らかに住んでいる者、サマリヤの山に信頼している者」は暴虐の時代を近づけていると言っている
(アモス6:1-3)。
「象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者」たちは「最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる(アモス6:4-7)」とも言う
。
主は生ぬるい者を「口から吐き出そう」とまで言われる(黙示録3:16)。
そう言えば、昨日読んだ箇所にもそんなことが書いてあった
。預言者エリシャがイスラエルの王ヨアシュに「主の勝利の矢」をとり、地面を打てと言ったとき、3回打ってやめた王に対し、エリシャは「5回、6回打つべきだった。」と言った
。そうしたら完全に敵を絶ち滅ぼせたのにと
(Ⅱ列王13:17-19)。
私たちの中に、主に対する情熱が、信仰がどれほど燃えているかは、それほど重要なのだ
。
そう考えると、叫ぶ理由のある者は、本当は恵まれているのかもしれない
。病、貧困、仕事の問題、家族の問題、人間関係、自分自身のアイデンティティの問題など、主にすがらざるを得ない課題を抱えていることは、恵みともなりうるのだ
。
私にも叫ぶ理由がある
。自分のことも人のこともあらゆることをもって叫び祈ろう。
「彼女に穀物と新しいぶどう酒と油とを与えた者、また、バアルのために使った銀と金とを多く与えた者が、わたしであるのを、彼女は知らなかった。(ホセア2:8)」
これは私のことだ
。そして、私につながるほとんど全ての先祖たちのことだ
。この日本に住むほとんど全ての人たちのことだ
。この世界に住むほとんど全ての人たちのことだ
。
私は今日、このことを叫び悔い改めたい
。私は今日、このことをとりなしたい
。
安んずる者になりたくない
。言われたことをただするのではなく、「主よ、私はこう考えてみました。主よ、こんな風にするのはどうでしょう?」と語り合いながら、一工夫しながら進みたい
。
私たちの必要を全て満たしてくださる主に感謝する。情熱も信仰も主がくださる
。足らなければ願えばいい。主はお優しく豊かな方。求める私たちを満たされる
。
読んでくださった方の祈りに、今日も聖霊の火が入り、今までにない力が湧き上がることをイエスの御名で宣言します
!
今日もみ言葉で祈ろう
。
