聖書通読36日目。
今日もみ言葉で祈ろう
。
Ⅱサムエル13-17章、詩篇3篇
昨日は祈りの取り組みを始めてから200日目だった
。主に守られ継続できていることを感謝する
。
去年の昨日はどういう日だったかというと、集会の真っ只中だった
。そして、私を導いてくださったSママの葬儀の前夜式があり、私はそこでのスピーチを頼まれていて、そして、その時、主人は脳梗塞を起こし入院していた。私は教会と葬儀場と病院とを行ったり来たりしていた
。
こう書くと、とても大変そうだが、ただただ主の導きに従い、恵みの中、歩んでいた
。
さて、今日の箇所。息子に王座と命を狙われて弱り果てていたダビデに、シムイがのろいの言葉を浴びせかけるところ
(Ⅱサムエル16:5-12)。
憤る部下をいさめ、ダビデは彼をほうっておけという
。その後にこう続く。「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私に幸せを報いてくださるだろう。(Ⅱサムエル16:12)」
主に向かう、ダビデの姿勢に心打たれる
。そうなのだ。起きている問題がどうなるかを見るのではなく、主に向かう私の心がどうであるのかを心配しよう
。
試練の時、いや、どんな時も、主が見ておられるのは私の心
。主は私の心のうちにあるものをいつも探られる(申命8:2)。「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Ⅰサムエル16:7)」
ダビデは主がささえてくださるから、幾万の敵をも恐れないと告白する
(詩篇3:5-6)。
200日目の昨日、私にいくつかのことが進んだ。
1つは、何年も返したいと思ってきた友人の預かり荷物を返せたこと
。宗教書やスピリチュアル本がたくさん入っていたので、手放したかったのだが、その人が海外にいるゆえにすぐに返すことが難しかったものだ
。ハレルヤ!主に感謝!
もう1つは、たまたま見た動画で、デスティニーのことが言われていたことだ
。
ほとんどの人が自分のデスティニーがなんであるか、つまり、自分の生きる目的、使命をはっきり知らないという
。
デスティニーは特別な人にだけ与えられているのではない
。生きている全ての人が与えられている。手の指紋が他の人と全く異なるように、全ての人が自分固有のデスティニーを頂いて生まれてきている
。
それをつかむ人が少ないのだ。では、どんな人がつかむのか。特別な人?能力のある人?そうではない。神のみわざを見たいと心から願う人、その人に神はデスティニーを教えられる
。
だから、私は求め続ける。願い続ける。主が必ず教えてくださると信じ、祈り続ける
。そして、他の人がデスティニーをつかむことを助けていけるようになりたい
。
読んでくださった方々のデスティニーへの渇望が高まるよう、イエスの御名によって祝福します
。
今日もみ言葉で祈ろう
。
昨日見た動画
