「無意識」の目がウロコ | 原初感覚を探して/からだ日記

原初感覚を探して/からだ日記

このブログは、2014年まで、いすみ市において開催されていた「風楽の会」を引き継ぐものです。

ずいぶん更新をしてませんが、
このところ、なかなか過酷な
Family Affair
のこととか、いろいろあって
今、
自分はさなぎのような状態になってる気がします。

参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/蛹

「蛹の形態」のところを見てください。
「中がドロドロに溶解してる」
とありますね。

今はドロドロというプロセスなのだと思うと
次のステージはどうなんだ?
という

楽しみなような
戦慄のような。。。

そんな中
無意識について
目からウロコだったことがありました。

つまり
これまでずっとこだわって来た無意識の世界について

無意識は無意識なんだから
何も感じないのが
当たり前だったってこと

それを、何だか
修行のようなことをやったり
いろんな文献を読んだりして
無意識の感覚、概要
納得のようなものを。。。
見たい、知りたい、感じたい!と

お釈迦様の掌に名前を書いた孫悟空みたいに
遠くに遠くに行こうとしてたなぁ、って
思いました。

意識で捉えるのは無理
と口では言いながら
その「知ってるつもり」が
意識の産物だってのにね。。。

ある時、風楽先生と電話で話していて
なんと言えばいいのか、
あえて言えば「目からウロコ」
な実感に襲われた

それが上述した内容

参考:風楽とは
http://ameblo.jp/naminori821/entry-12049999949.html

無音という時
そこにあるのは音というフレームの中の「無」
無色という時
そこにあるのは色というフレームの中の「無」
無意識も然り
意識が前提の「無」だった

本当の無は
「無」さえない、という感覚
ああ、虚しい
虚しくておかしかった
笑えて涙がにじむ

あぁ、こんなこと、今まで何度も言ってきた。。。

今回、その実感が
何だか今までと違う
体で感じた、とでも言えばいいのか
そしてそれもまた幻想なんだろう

実感と言葉は最後の最後まで融合しない
この実感に近づく技法として
「詩」という言葉の配列とか
お経のサウンドとかも
あるかもしれないけれど

どれもどれもどれもどれも
色眼鏡が更新されるだけで
メガネなしでは何も見えた気になれない私たち

でもでもしかし、そもそもそのようにできてるのだから
いいんだね
このままで

というところに今はいます。

そしてまた「このまま」に耐えられなくなって動き出す
好奇心はエネルギーを起こす風のようなものなんでしょうか?

風転風楽。。。

aha

「わかる」と「実感する」の差。