『東南アジア史』#最近の学びは | 白玉猫のねむねむ日記

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最近の学びは

 二度目の『東南アジア史』を

聴講してきました!

\(^o^)/

 








 1.【交易の時代】について

ドクロ14世紀(1300年代)の危機

 ・ペストの大流行

 ・地球寒冷化🌏による飢饉と人口減少


うさぎのぬいぐるみ15世紀(1400年代)の回復アップ

  •   地球温暖化→農業生産発展
  •   都市民の出現
  •   絹、生糸、陶磁器、胡椒などが王侯貴族の贅沢品から、より広い階層の人々が日常的に使う商品に変わったことで、大量&継続的な需要が生まれ、交易が活性化した

まじかるクラウン14世紀中頃モンゴル帝国の分裂があり治安が悪化→陸路による交易が困難にあせる

また一方で、大型船の登場、羅針盤の普及、航海技術の向上が東西交易を海路主流に!

このことが東南アジアの交易を大きく発展させた。= 交易の時代!



2.【交易の時代】のはじまり

①鄭和の遠征

1405年 宝船(ほうせん)


②朝貢システムと琉球

尚巴志(しょうはし)


朝貢使節を日本と中国の双方に送り、

直接的な交易が禁止されている時に、

東南アジアと東アジア間の、架け橋に。




③イスラーム商人の活躍

東南アジア「大陸部」の主要都市では

支配者は仏教徒(上座部仏教)

  • アユタイ(タイ)
  • ペグー(ミャンマー)

東南アジア「島嶼部」の主要都市では

イスラームの受容


イスラーム商人の来航が盛んになるにと、イスラーム法に基づく商業取引や、契約文書の習慣を共有することが、

交易活動をする上で重要になった。




④ヨーロッパ勢力が参入した理由

15世紀のオスマン帝国の支配が広がると、陸路でのヨーロッパと東南アジア間の交易が難しくなり、

変わって、航路へ。

いわゆる「大航海時代」へ!



3.後期「交易と時代」1511年〜1680年

交易網の多様化


①ポルトガルの占領政策失敗

ポルトガル1511年マラッカ占領!

丁子(クローブ)





丁子(=クローブ)の花




香辛料の丁子=クローブは
花のつぼみを




を、干したもの!




同じく香辛料の

ナツメグ(ニクズク)





実と種



実を乾燥させて、種をとり、粉にして

香辛料になる




しかし、

ポルトガルの独占交易体制は

  • 人的資本の少なさ
  • 長大すぎる、交易ルート
  • 高関税

などから失敗。
商人はマラッカ海峡を避け、新たなルートへ。多極的交易網への変化である。



②ヨーロッパ勢力の影響
ポルトガル
スペイン
オランダ
イギリス

ジャワとマレーのイスラーム商人は
ポルトガルの企てを拒否、
丁子とナツメグをエジプトまで運んだ。

③オランダの覇権確立
1611年ジャカルタ商館
1623年アンボイア事件
1641年マラッカ奪取
1620年香辛料積載量ピーク
オランダ東インド会社によるヨーロッパへの香辛料・胡椒の独占と供給過剰は利益崩壊へ。

④日本の参入
1604年〜1616年 朱印状


4.東南アジアの国家形態と背後地

港市国家は
  • 主要都市=王権・政治・経済の中心
  • 常に外界に繋がり解放されていた
  • 背後地は海上民の支配下にはなく、対等か協力関係
支配できなかったのは、周辺地域での社会秩序・治安を維持、円滑な交易活動を行うことで、外国人商人の評価を得る必要があったため。

港市の運営に外国人を組み込み、言語や宗教が同じである外国人商人の対応をさせていた。

この外国人商人を任命するのは、港市の支配者。

これは交易の便利さだけではなく、港市が物資集散地として、外界の情報に常にアンテナを張り、情報から状況に合わせて対応する必要性にも起因していた。

5.東南アジアの地域内での交易
主要港市⇔後背地


交易の時代の東南アジアは主要な港市を中心として、多くの周辺港市や後背地が、相互補助関係として、ゆるやかであるものの、一つにまとまっていた。

前期、中心はマラッカ
東南アジア地域の大部分が直接・間接的に、交易活動に巻き込まれていた。


6.交易の時代に活躍した港市国家-島嶼部
1:マラッカ王国

  • 鄭和の遠征の基地だった
  • 中国に朝貢を通したら友好関係を結び、政治的安定
  • イスラームを国教としたことで、インド洋(イスラーム)世界からの多くの船の来航を促した。
  • 地理的条件の良さ!マラッカにて交易すれば、中国船→インド、イスラーム→中国に行く半分の期間で、交易の目的を果たせる位置にいた。
  • ヨーロッパ市場での胡椒交易にも有利な場所
  • 外国人商人の中から4人のシャー・バンダル(港務長官)
  • 港市は王宮・イスラーム寺院・市場・外国人居留地
  • 国際性が高く、他宗教に寛容。

2:アチェ王宮
  • 胡椒の交易でオスマン帝国と密接な関係
  • インド・中国ルートの重要ポイント
  • 東南アジアにおける反ポルトガル勢力の代表的存在
  • メッカへの玄関
  • アチェは、スマトラの金と錫、胡椒、森林生産物の輸出港として、東西世界の商人が寄港する港市
  • 東南アジア海域イスラームの盟主
  • マラッカに代わる胡椒交易の独占
3:バンテン王国
  • 港市バンテンを拠点に、ポルトガル人を追い出し、ジャカルタを支配
  • 西ジャワ・南スマトラの胡椒生産地を影響下に置き、広範囲に後背地を得たことで繁栄
  • 中国人商人・インド商人・イスラーム商人・トルコ商人などが寄港
  • 16世紀に入るとイギリス人・オランダ人も、寄港。
4:マタラム王国
  • ジャワ島内陸に拠点
  • 農業生産の発展→港市を影響下に
  • 土着信仰&イスラーム
  • オランダ東インド会社とは、衝突も友好も。
5:海域東南アジアの港市
早瀬晋三氏
イラヌン・サマル海運・海軍力(海賊)

1:港市国家マカッサル
17世紀イギリス・デンマーク・フランス・ポルトガルが活動拠点にする。
全ての外国人(商人)はマカッサルにて自由に定住し、自らの宗教を奉じ、若干の税負担以下は、何の規制もなく交易に参加できた。このマカッサルの自由交易と独占を巡る対立は、1660年代オランダと武力衝突に至り、敗北。

2:テルテナ、ティドーレ王国
3:マニラ
1571年スペインがマニラを占領
スペイン領フィリピンの首都
結合 マニラ・ガレオン貿易
  • 中国…ジャンク船貿易
  • スペイン…ガレオン貿易
中国・日本・ブルネイと交易
日本人町
日本銀

7:「交易の時代」に活躍した港市国家ー大陸部

1:アユタヤ朝(タイ)
山田長政
アユタヤはマラッカ海峡を経由せず、中国や琉球を相手にした南シナ海交易と、インド洋交易を行う東南アジア大陸部の強国



2:タウングー朝と港市ペグー
ミャンマー

3:ベトナム
ベトナム青花(染付) 

鎖国以前、朱印船・オランダ東インド会社が長崎に向かうて、大量のベトナム産絹製品を運んだ。





8:主要交易品

交易の中で、香辛料は現代では考えられないほど、大きな役割を果たした。

(胡椒・モルッカ諸島の丁子・ナツメグ)
香辛料が重要な産品とされた理由は、その利益の大きさと、
香辛料を求めて来る外国人商人が
港市や背後地・生産地に交易品をもたらしたから。

モルッカ諸島=スパイスアイランド
丁子とナツメグとメースの花



16世紀…モルッカ諸島の一部
17世紀…南方に広がる・オランダ東インド会社がアンボン島で丁子の栽培


胡椒の生産
15世紀…スマトラ北部に広がる
16世紀…インド・インドネシアに広がる



9:交易による後背地への影響
東南アジア地域全体は常に
原料・素材の輸出者
手工業製品の輸入者


17世紀中頃ピーク期
スマトラ島・マレー半島・ボルネオ島の一部島民が、
胡椒の耕作で、生計を立てていた!


「交易の時代」以前
東南アジアの港市から輸出された産品は、後背地の住民が基本的に自給自足活動(農業活動)の合間に採取されていた。

「交易の時代」以後
後背地に暮らす内陸民は、商品作物の栽培こそが、生産活動の中核に据えらることになった。


10:陶磁器の出土から考える歴史研究
例:伊万里





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