副題:ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの

 著者:森健(もり・けん)

    ジャーナリスト。2012年第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞

    15年、本作で第22回小学館ノンフィクション大賞受賞。

 

 序章:名経営者の「謎」

 ・郵便以外の物流インフラを日本で初めて作り上げた小倉は、規制緩和のため霞が関の公官庁と闘

  い、後年は障害者福祉に貢献した。どの角度で見ても、素晴らしい人物の小倉について、どうし

  ても分からなかったことが3つあった。

 ・一つは、退任後、なぜ彼はほとんどの私財を投じて福祉の世界に入ったのか。しかも、財団まで

  設立し、私財46億円を投じて福祉の世界に入ったというのに、<はっきりした動機>がないのは

  奇異に思えた。

 ・二つ目は、小倉の人物評への疑問だ。小倉昌男と言えば、「闘士」というイメージがある。論理

  をもって不公正な制度に立ち向かう姿は、論理と正義の人という印象を経済界に与えた。

 ・三つ目は、最晩年の行動だ。不思議に思ったのは亡くなった場所だった。80歳という高齢で、な

  ぜアメリカまで行くことにしたのだろう。そんな行動にも疑問を覚えた。

 

 1章:私財のすべてを投じて

 ・大企業の経営者とは思えない、朴訥で真摯な話しぶりに、優しい人柄が伝わってきた。福祉業界

  の改革は小倉にとってヤマト運輸引退後の大きな目標になった。

 ・もともと小倉はクリスチャンだった。小倉は驚くほど取り乱し、妻の早すぎる死を嘆いた。享年

  59。あまりに早い死だった。妻の玲子は還暦後にしたいことを語っていた。それがボランティア

  活動だった。

 ・玲子の死後、小倉が寄付を始めたことに、違和感は覚えなかった。玲子の思いを汲んだ寄付と考

  えれば、辻褄があうことだった。玲子の死から二年余り後につくられたヤマト福祉財団には、そ

  んな玲子夫人への思いがあっただろうと考えている。

 ・もし私財のすべてを投じて行うほどの行動の動機が妻にあったのだとすれば、小倉は素直にそれ

  を表現していたと考えるのが自然だった。

 ・玲子が救急に搬送された話に触れた際、病による自然死ではなかったことが無念、というニュア

  ンスの言葉を小倉家の関係者から耳にした。

 

 

 2章:経営と信仰

 ・小倉は結核にかかって死にそうになったこともある。幼いときには実のお母さんが早くになくな

  って、再婚したお母さんもすぐになくなった。大人になってからは奥さんが早くに亡くなられた。

  奥さんのお母さんもなくなった。そして、お嬢さんのことでご苦労された。

 ・いまでは想像しにくいが、当時、一般家庭で荷物の配送をしたいと考えたとき、その選択肢は郵

  便局に持ち込む以外ないのが実情だった。

 ・1975年に大和運輸は過去最大の赤字となった。その厳しい条件下で生み出されたのが、一般家庭

  の荷物を集めて配送するという「宅急便」だった。小倉さんが宅急便のアイデアを固めたきっか

  けは、佐川急便だったのです。佐川は規制や法律はすべて無視して、荷主の注文のままに運んで

  いた。そうして規模を大きくしていたんです。

 ・東京に進出した途端、佐川は本領を発揮した。佐川さんは法律を学び、従うような人ではなく、

  顧客サービスのためなら何でもやるというような人でした。一方、小倉さんは法律違反は絶対に

  しない。でも、なぜ佐川が繁盛するかはわかる。小荷物配送のニーズを佐川がとりはじめていた

  からです。

 ・そんな中でお小倉が発明したシステムが宅急便だった。家庭の荷物を集めて、家庭に送るという

  仕組みを考えたのは、やはり小倉さんの発明なんです。ビジネスモデルを構築したのは小倉の理

  論的な知力によるが、実際にそれが叶うかどうかは佐川急便が法を超えていち早く証明していた

  というところだろう。宅急便は地域の酒屋に取次を委託した。

 ・ヤマトの快進撃を見て、同業他社も宅配便事業に乗り出した。日本通運は「ペリカン便」、佐川

  急便は「飛脚宅配便」、西濃運輸は「カンガルー便」、トナミ運輸の「パンサー便」、西武運輸

  の「ライオン便」そのほかにもつばめや小熊、ダックスフンドなどさまざまな動物がキャラクター

  に利用された。

 ・好循環をつくりだした根源は、小倉が事業開始時に掲げた「サービスが先、収益は後(のちに

  「利益」に修正)というスローガンだった。だが、この期間、小倉はもう一つ大変な闘いを抱え

  ていた。そして、そちらでは小倉は勝ったためしがなかった。戦場となっていたのは家庭だった。

 ・わからなかったのは、なぜこの時期に小倉はカトリックに改宗したのか、ということだった。

 

 

 3章:事業の成功、家庭の敗北

 ・実際のところ、小倉の実務としての闘いは、他社というよりも自社にあった。そもそも宅急便を

  導入する時にも、役員のほとんどは反対だったと元秘書の岡本和宏が振り返る。宅急便をはじめ

  る1976年の春、この会社は潰れるだろうと思っていました。この時期の小倉は、仕事を優先させ、

  家庭を顧みることがなかった。

 ・小倉家に往診で通ううちに、玲子の問題の一因がわかってきた。それは彼女が抱える強いストレ

  スだった。周囲からの批判の声であり、親戚からひどく責められていることだった。周囲が批判

  していたのは、子どもの育て方。とりわけ長女の真理に対する批判だった。

 ・小倉さんにとって、真理さんはアキレス腱だったんです。真理さんがわがままを言い、小倉さん

  がその面倒を見る。玲子さんは振り回される。そういう関係がありました。彼女の存在なしに小

  倉さんは語れないんです。

 ・お店をやりたいと言ったのは真理だったかもしれないが、真剣だったのは親だった。夫妻が真剣

  だったのは理由があった。自分のお店を開けば、真理が遊びに出歩かず、店に張り付くだろうと

  考えていたためだ。親ばかと言えば、親ばかなのでしょう。普段の小倉さんからすると、考えに

  くいのが、真理さんに対する態度でした。人には誰しも弱みがありますが、それが小倉さんには

  真理さんでした。

 ・狙いは真理さんの交際相手です。彼と会わせない為のお店だったんです。そんな思惑でお店をも

  たせたんです。真理が交際していた相手はアメリカ海軍に所属する男性だった。彼は黒人だった。

  玲子の悩みが深くなったのは真理の海軍男性との交際が周囲に知られるようになってからだ。簡

  単に言えば、『小倉家の娘ともあろうものが』という偏見です。世間体を守りたかったのだと思

  います。

 ・外部から見ていて歯がゆかったのは、そうした公私の騒動の中で肝心の小倉がまったく小倉らし

  くないことだった。人の親とはこういうものかと思いましたね。小倉夫妻が真理に店をもたせた

  背景には、単に米国人男性との交際を控えさせるだけではない事情もあった。真理自身にもたし

  かに問題があったからだ。理不尽な場面に遭遇しても、小倉は一度も娘を責めることはなかった

  という。小倉は娘には怒らない。それこそが小倉の「アキレス腱」だった。

 ・結果的には、真理は米国人男性とは別れず、翌1990年1月、その彼と結婚することになった。

 

 

 4章:妻の死

 ・北海道の定期出張=旅行が小倉夫妻にとって、かけがえのない時間だったことは疑いない。

 ・当時、二人にとって大きな悩みは長女・真理だったが、この時期、小倉にとっては、玲子も悩み

  の種になっていた。玲子はアルコールに逃げるようになっていたためだ。解決しない娘の問題に

  加え、妻までが荒れていく。自宅は安らぎの場ではなく、苦悩の場となっていた。

 ・小倉が玲子に絡んで一歩踏み出したのが、十勝カルメン会修道院と玲子の故郷、静岡県蒲原町へ

  の福祉基金への寄付だった。そうした中、小倉自身にも災難が降りかかってきた。がんである。

 ・1993年、小倉は福祉財団を設置することを決意する。福祉の対象は障害者・・身体障碍者、知的

  障害、精神障害と絞っていた。しかも、私財の三分の二を投じる大胆さだった。

 

 

 5章:孤独の日々

 ・2000年夏、小倉にとって予期せぬ出来事が起きた。真理たちダウニィ一家がアメリカで暮らすこ

  とを決めたのである。ハーフ(英語ではミックスという)という特性をもつ子どもたちを育てる

  に際して、いじめなど生育上のリスクが日本とアメリカ、どちらで高くなるかを考えれば、アメ

  リカのほうが低く、有利なのは明らかだった。

 ・思わぬところに小倉に手を差し伸べていた人がいた。食事を作ってあげ、ときには旅行にもいく

  いざとなればお風呂で足も洗ってあげる。そんな女性が現れていたのである。「なくなるまでの

  5年間ほどの間、彼女がいたことで小倉さんは生きられた。」女性の名前は遠藤久子(仮名)と

  いった。

 

 

 6章:土曜日の女性

 ・晩年の小倉さんを良く世話してくれたじょうです。「彼女は食事や清掃などすごく面倒をみてくれ

  ていた人。誤解を招きやすいんだけど、男女の関係ではないんです。もともと銀座のママさんで、

  小倉さんの晩年には欠かせなかった人だ。

 ・大きな家に小倉さん一人は広すぎた。それで、お一人のときには、週一回くらい通いますよという

  話になったんです。いつしか土曜日の午後は定期的に遠野たちが雑事をこなしに小倉宅に通うこと

  になった。小倉は週一回の通いに対して「お小遣い」として遠野やお店の女性に毎月まとまった額

  を渡すことにしていた。

 ・仲のいい人達といろんな所へ行くのは、小倉さんの一番の楽しみでした。小倉の心境の変化には気

  が付いたが、遠野は一定の距離を守るようにしていた。それは、遠野の本意ではなかったからだ。

  小倉は毎週土曜日自宅に通ってくれる遠野に対して一緒に暮らす打診もしたが、遠野は断ってい

  た。そして、クリスマスに近い12月下旬、小倉は久我山にある介護付き有料老人ホームに移って

  いった。三ヶ月後、訃報はニュースで知ることになった。

 ・あれから十年が経って小倉について思う事は、自分との関係だけではないという。「不思議なん

  ですが、小倉さんの本質的な人間性は家族との関わり、とりわけ真理さんとの関係においてこそ

  見えるのだと思います」遠野は自発的にこう指摘した。小倉には、大人になってからもつらいこ

  とがあった。その大きな要素が真理との関係にあったと遠野は指摘した。

 ・真理は幼い頃から問題を抱え、問題を抱えたまま大きくなっていた。「小倉さんの中では、ずっ

  と何年も、何十年も真理さんのことがひっかかていたと思うんです」「小倉さんがずっと気に病

  んでいたのは真理さんの心の病なんです」「真理さんの様々な問題は全て自分に責任があると感

  じていたんです。その負い目があって、真理さんには特別な愛情、これは責任と裏腹で強く感じ

  る愛情・・をもっていました」

 ・遠野が示唆した話は、これまで多くの関係者を訪ね歩く中で積み重なっていた謎をすべて解き明

  かすようなカギでもあるように感じられた。

  「小倉さんは身体に鞭打ってまでアメリカに行き、娘のところで最期を迎えた。ひっとすると、

  小倉さんは自分の責任を果たせたんじゃないかと」

 

 

 7章:子どもは語る

 ・康嗣が父の存在を小さく見ていたのは、家族における存在として、父の威厳が非常に低いものだ

  ったためだ。康嗣が若い頃、小倉家ではもっと深刻な問題があった。姉・真理の問題だった。

  当時、真理は三年程活動していた宝塚歌劇団雪組を退団し、家に戻っていた時期だった。

  「殴り合いこそないけど、言葉の暴力は毎日。それはもうひどかった。ひとたび騒ぎだしたら、

  誰も止められない。本当に心臓に悪い環境でした。私にとっては正直、トラウマです」

 ・そうした経験から、中学生の時から康嗣は姉とは話をしなくなり、その後じつに三十年あまり姉

  と会話をしなかった。

 ・父や母、とりわけ母には「よりによってなぜ黒人なんだ」という苦渋の思いがあったと思います。

  実家に戻るたびに修羅場となっている風景を目撃した。母と姉が大声でぶつかり、泣き喚く。

  母は次第にアルコール量が増えていった。それに対して、父は頭ごなしに叱ったり、やめなさい

  と強く言ったりはしない。相変わらず『まあまあ』とかわすだけ。そんな曖昧な態度は、母にと

  っても姉にとってもストレスだったと思いますし、そのストレスが母の心臓を悪くさせたのでは

  ないかと思います。

 ・三十数年ぶりに姉と和解したきっかけは何だったのか。それはやはり病気の父の今後どのように

  ケアするかとうい、きょうだいにとって共通かつ重大な問題に直面したことだった。そして、そ

  こには遠野の問題もあった。過去を語らず目の前の議題について語ることで、はからずも姉弟間

  の空いていた距離が埋まった。

 ・有料老人ホームに入った途端、小倉は思わぬことを言い出した。アメリカに移って、真理の家族

  と暮らしたいと言い出したのである。小倉からすれば自分の余命がどれくらいなのか想像した上

  での結論だと思われた。二月の時点での所見はゴールデンウイークまでもたない可能性が高いと

  いうものだった。「特に孫に会いたかったんだと思います」子どもたちとしては叶えてあげるの

  が務めだと考えた。

 ・真理は先回りして頷いてから語った。「そう。精神科にもいろいろ通ったんです。その結果分か

  ったのは、境界性パーソナリティ障害ということでした」境界性パーソナリティ障害とは、怒り

  寂しさ、不安、自己否定感といった感情が頻出して考えを捉え、衝動的な行動にでたり、対人関

  係でトラブルを起こしたり、アルコール依存といった破壊的な行動を起こす。

 ・「私としては境界性パーソナリティ障害とわかって本当によかった。薬を飲み続けていれば安定

  する。2006年には自分にあった薬が出た。それでものすごく精神状態が安定したんです」

  「父が2005年になくなったあと治ったんです。以来、まったく本当にまったく暴れないし、キ

  レなくなった。だから・・・病気だったんですね」

 ・母の自分への態度はつらかったと真理は即答した。暴れる。怒鳴る。そのとき真理としては自分

  に向き合って欲しいと願っていた。だが、母は真理に向き合わず、周囲ばかりを気にしていた。

  それが真理は嫌だった。「どう見られるかしか気にしていなかった」

 ・「私が騒いでいるときに、父は決してガンと叱ったりしなかった。だから母は『なぜ親なのに叱

  らないの!』とますます怒る。私が言うのも変ですが、本当はそこで男親らしく叱ったり怒った

  りすべきだったのだと思います」「なぜ母がアルコールに溺れるようになったのかと言えば、祖

  父の康臣やその三番目の妻のいじめもありましたが、もっとも大きな要素だったのは母自身です。

  彼女が周囲の目を気にして、自分で自分を追い込んでしまっていたのです。繊細すぎる正確だっ

  たのです」

 ・東京での暮らしでは、康臣の後妻からは「奴隷」のような扱いをされ、世間的には田舎者扱いを

  された。培ってきた自尊心は粉々に砕かれた。さらに言えば、真理が精神的に不安定になってい

  た要因も、玲子の対応が関係していた可能性さえもある。

 ・真理から見ても、当時の母はかなり危険な状態になっていると映った。だから、母に対し、病院

  で診てもらうよう促していた。だが、玲子がまともに自分の治療に取り組んだ形跡はなかったと

  いう。

 ・症状としても、行動で見ても、明らかにうつ病でした。当時はうつ病という概念への理解も、本

  人のうつ病という病気の危なさへの認識も乏しかった。もともと玲子は狭心症も患っており、実

  際にニトロも服用していた。

 ・実は小倉家でもっとも大きい存在だったのは祖母だったと真理は語った。祖母がづっと母を押さ

  えつけていたんです。母は私みたいに逆らうようなことがなかった。母は祖母に縛り付けられ、

  下は子どもの私がいうことを聞かずに暴れ、と板挟みにあっていた。真理の幼いころからのトラ

  ブルにしても、玲子の患っていた病気にしても、どちらにも精神的な問題が存在していた。小倉

  はその苦悩をずっと抱えていた。

 ・父にとっては、私の精神的な不安定さが心配の種だったんです。それは母に対してもあったと思

  います。少なくとも、普通の仕事は私には任せられないと思っていたのは間違いありません。

  たぶん父は、私や母に対して・・・自分ができなかったことを、この財団を通じて行いたい、と

  いうことだったのだと思います。

 ・小倉の心のもっとも底に流れていたのは、真理や玲子が患った心の苦難に対する思いだったので

  はなかっただろうか。小倉の思いがわかってくると、最後の時を迎えるにあたって、なぜ渡米と

  いう、身体的にも大きなリスクを冒してまで真理のもとを訪れようとしたのか、別の意味合いが

  見えてくる。たぶん父は、最後まで自分が真理の面倒を見なければならない・・。そう考えてい

  たんじゃないかと思うんです。不安定な娘の面倒をみようとい、はるばるアメリカに渡ったんで

  す。

 

 

 8章:最後の日々

 ・現代において物流は電気や電話と同じような基礎的インフラとなっている。物流はかつてない程

  重要な基幹産業になった。そんな宅急便という発明を行ったのが小倉昌男だった。

 ・以前、うつや精神疾患はさほど一般的ではなく、周囲に隠すのがつねだった。小倉は早い段階で

  二人の振る舞いの根源が病から発していると気づいていたのではないか。

  それでも悲劇が起きた。わずか一夜、自身の下を離れ、妻が葉山に泊ったことで、悲劇を防ぐこ

  とができなかった。その後悔がどれほどだったか、想像するにあまりある。その二年後に財団を

  つくったという事実は、なによりも小倉なりの強い結論と考えるのが自然だろう。

  私財を投じて捧げた思いは、あまねく障害者への思いとともに、安らかならんとする家族の心の

  祈りではなかっただろうか・・・。

 ・最後の数ヶ月、いちばんしがらみのなかった孫たちと暮らせたのは、父にとって幸せだったと思

  います。遺骨は真理が引き取って帰国、カトリック高輪教会内にある納骨堂に納骨された。

 

 

 長いあとがき

 ・完全に治ったのが小倉さんが亡くなった後というところは残念ですが、真理さんが病気を克服し

  本来の自分を取り戻せたのであれば、これ以上の喜びはありません。

 ・第二十二回小学館ノンフィクション大賞の大賞を受賞したという連絡を受けたのは、それから一

  箇月の七月三十一日のことだった。小倉昌男の半生を取材する過程で、子どもたちの人生の転機

  にも遭遇したことは取材者として幸運だった。

 

 

 ●● ピークパフォーマンス方程式 ●●

 ・好循環をつくりだした根源は、小倉が事業開始時に掲げた「サービスが先、収益は後(のちに

  「利益」に修正)というスローガンだった。だが、この期間、小倉はもう一つ大変な闘いを抱え

  ていた。そして、そちらでは小倉は勝ったためしがなかった。戦場となっていたのは家庭だった。

 ・外部から見ていて歯がゆかったのは、そうした公私の騒動の中で肝心の小倉がまったく小倉らし

  くないことだった。人の親とはこういうものかと思いましたね。小倉夫妻が真理に店をもたせた

  背景には、単に米国人男性との交際を控えさせるだけではない事情もあった。真理自身にもたし

  かに問題があったからだ。理不尽な場面に遭遇しても、小倉は一度も娘を責めることはなかった

  という。小倉は娘には怒らない。それこそが小倉の「アキレス腱」だった。

 ・1993年、小倉は福祉財団を設置することを決意する。福祉の対象は障害者・・身体障碍者、知的

  障害、精神障害と絞っていた。しかも、私財の三分の二を投じる大胆さだった。

 ・真理は幼い頃から問題を抱え、問題を抱えたまま大きくなっていた。「小倉さんの中では、ずっ

  と何年も、何十年も真理さんのことがひっかかていたと思うんです」「小倉さんがずっと気に病

  んでいたのは真理さんの心の病なんです」「真理さんの様々な問題は全て自分に責任があると感

  じていたんです。その負い目があって、真理さんには特別な愛情、これは責任と裏腹で強く感じ

  る愛情・・をもっていました」

 ・「私としては境界性パーソナリティ障害とわかって本当によかった。薬を飲み続けていれば安定

  する。2006年には自分にあった薬が出た。それでものすごく精神状態が安定したんです」

  「父が2005年になくなったあと治ったんです。以来、まったく本当にまったく暴れないし、キ

  レなくなった。だから・・・病気だったんですね」

 ・小倉の心のもっとも底に流れていたのは、真理や玲子が患った心の苦難に対する思いだったので

  はなかっただろうか。小倉の思いがわかってくると、最後の時を迎えるにあたって、なぜ渡米と

  いう、身体的にも大きなリスクを冒してまで真理のもとを訪れようとしたのか、別の意味合いが

  見えてくる。たぶん父は、最後まで自分が真理の面倒を見なければならない・・。そう考えてい

  たんじゃないかと思うんです。不安定な娘の面倒をみようとい、はるばるアメリカに渡ったんで

  す。