もういちど読む 山川日本史2-①

  山川出版社  投稿日:2014年12月30日(火)05時41分56秒
  
  ・いったん立ち止まって過去を振り返り、その成果や問題点を整理し、将来を構築することは決して無駄な作業ではない。<時代は繰り返すからこそ、学ぶ必要があると考える。>

①原始・古代・・奈良時代、平安時代まで
◎人類の誕生(500万年前)
 人類が現れたのは約500万年前、1924年に南アフリカで発見されたアウストラロピテクスは100万年前の人類だが、1990年にエチオピアで発見されたアミダス猿人が500万年前で、最古の人類とされている。
縄文文化は数千年に渡り日本列島に栄えた

◎小国の時代(紀元前1世紀)
・紀元前1世紀前後の日本は倭(わ)と呼ばれ、100以上の国々にわかれていた。
「魏志」倭人伝によると、2世紀後半に国々が攻めあった後、卑弥呼という女性を連合国家の王に立て、乱を治めた。

◎漢字と仏教(538年)
古墳時代には、自然神や氏神のやどるところとして神社が造られた皇室の祖先神である天照大神をまつる伊勢神宮大国主神をまつる出雲大社海神をまつる住吉大社などが有名。
紀元前5~6世紀にヒマラヤの王族から出た釈迦が説いた仏教がアジア各地にひろまった。日本への仏教伝来は538年説が有力。人間の苦悩を救う仏教の教えは、大王・豪族に受け入れられやがて一般民衆に普及した。

◎蘇我氏の台頭(593年)
・593年推古天皇がはじめての女帝として即位した。女帝の甥の聖徳太子(当時の名前はうまやと皇子で、「聖徳太子」は没後に漢詩文集に出てくる呼称)が皇太子として摂政となり、蘇我馬子とともに実際の政治にあたった。
・推古天皇は蘇我氏の基盤である飛鳥(今の奈良県)に宮をかまえ、飛鳥時代が始まった。
604年、憲法十七条が制定

◎改新の政治(645年)
・遣隋使とともに中国に渡った留学生が唐のととのった律令制度についての知識を持ち帰った。
藤原鎌足は律令にもとづく統一国家をつくろうと、武力で政変をおこし実権をにぎると、中国にならい、初めて「大化」という年号を定めた。ここに「大化の改新」と呼ばれる一連の改革が始まった。(「大化の改新」とは孝徳天皇時代の諸改革をあらわす概念。

◎近江の朝廷(667年頃)
・中大兄皇子は新羅や唐の攻撃に備えて、太宰府水城と山城をきづき、対馬と筑紫に防人(さきもり)をおいた。大野城は外敵から太宰府をまもる為につくられた山城

◎大宝律令(701年)
・701年、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らにより大宝律令が制定され、日本は律令国家としての形を整えた。(≒1,300年前、38代前)天皇の位が、父子の直系にうけつがれるという原則が成立したのもこのころ。
我が国が自らを「日本」としたのもこの頃。それまでは「倭(わ)」。
・特別な地域として、九州には外交・軍事と管内諸国を統括する太宰府が置かれた。

◎平城京の政治(710年)
・710年、元明天皇は平城京を築き、藤原京から都を移した。都が平安京(京都)に移るまでの80年あまりを奈良時代と言う。

◎平安遷都(794年)
・桓武(かんむ)天皇は、794年に平安京へ遷都した。これから源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代(794-1192)と呼ぶ。

◎延喜の治(えんぎのち)(901年)
・醍醐天皇の時に、藤原時平が左大臣に、菅原道真が右大臣になったが、901年、時平の策謀で道真は太宰府の長官に左遷された。<当時、太宰府長官は左遷先としてしばしば使われた>
菅原道真=平安時代の貴族・学者

◎かな文学(900年~1099年)
・藤原氏のさかえた時代の文化を国風文化と呼ぶ。
・平仮名、カタカナがつくられ、日本的な感情が自由に表現できるようになった。
・物語では、口伝え説話が発展した「竹取物語」から、本格的な文学「源氏物語」に至る、すぐれた作品が多く、国文学の最盛期である。紫式部の「源氏物語」は官庭での恋愛感情やその背景となる自然を描いている。清少納言は、人生や自然を観察し、随筆「枕草子」にまとめた。



②中世・・鎌倉時代~室町時代
◎保元・平治の乱(1156年・1159年)
・源氏や平氏の武士が、中央政界に進出するきっかけをつくったのが、保元・平治の乱。
・1156年に保元の乱、1159年に平治の乱が起こった。この争いで平清盛は源義朝を倒し、後白河院政を背景に平氏全盛の基礎を固めることが出来た。

◎鎌倉幕府の成立(1192年)
源頼朝は藤原氏を滅ぼし、1192年征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が成立した

◎地名が語る歴史(1200年頃)
・荘園制の名残りが見られる。百姓の名や名田につけられた「次郎丸」「石丸」「久富」などの人名のような地名。商業経済の発展を物語る「二日市」も多くみられる。

◎念仏の教え(1200年頃)
・武士の家に生まれ出家した法然、「南無阿弥陀仏」と、念仏をとなえて、阿弥陀仏による救いを信じる専修(せんじゅ)念仏の重要さを強調した。
・貴族の子で法然の弟子となった親鸞は、煩悩の深い人間(悪人あくじん)こそ阿弥陀仏の救おうとする人々であるという悪人正機(しょうき)の教えを説いた

◎迫害を乗り越えて(1200年頃)
・法然の活動と同じころ、宋に渡り日本に禅宗をひろめたのが栄西。禅宗は座禅という修行によって、悟りをひらくこを求めたもので、自力による救いを強調している。
鎌倉時代末期には宗派としての形をととのえ念仏では法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗一遍を開祖とする時宗の宗派が成長し、禅宗では栄西の臨済宗道元の曹洞宗が発展していった。

◎幕府の滅亡(1333年)
・足利高氏は途中から御家人を率いて幕府にそむき、六波羅探題を攻め落とした。
1333年、鎌倉幕府は滅亡した。足利高氏はその功により、後鳥羽天皇の名尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と名をあらためた。

◎建武の新政(1338年)
足利尊氏は1338年に征夷大将軍に任命され、幕府を開いて武家政治を再興した。こうして後醍醐天皇の新政治も3年でくずれたが、天皇は大和南部の吉野にのがれて皇位の正当性を主張したので、朝廷は吉野の南朝と足利尊氏の建てた京都の北朝とに分かれて対立することになった南北朝時代、約60年

◎室町幕府(1392年)
1392年、足利尊氏の孫義満の代になり、60年程続いた南北朝の動乱は終わり、鎌倉時代から続いていた公家(天皇や貴族)と武家の政治は終わり武家政治一本となった
幕府は京都の室町に置かれたので室町幕府と言う

◎動乱期の文化(1400年頃)
・鎌倉末期の庶民や武士・貴族を描いた随筆に卜部兼好(うらべけんこう)の徒然草がある。これまで吉田兼好で登場していたが、卜部が正しい。卜部兼好が吉田兼好を名乗るのは室町時代になってから。

◎集団の芸能(1450年頃)
・集団の芸能として発達してきた能・狂言も、この頃まとめ上げられた。室町時代には、能楽師は他の芸能者と同じく、座をつくって寺社に保護されるようになった。
観阿弥、世阿弥父子は、将軍義満の保護をえて、猿楽能を完成させた

◎京と町衆(1450年頃)
・庶民に受け入れられた日蓮宗は、15世紀に日蓮が京都で布教をすすめた結果、商人層にひろまった。

◎戦国大名の登場(1550年頃)
・16世紀半ば、越後の長尾景虎は、主家の上杉氏をついで上杉謙信と名乗り、甲斐国内を統一して信濃に領域を伸ばした武田信玄としばしば戦った



③近世・・安土桃山時代~江戸時代迄
◎キリスト教のひろまり(1550年頃)
・キリスト教は主に西日本で広まったが、信者の多くは貧しい人々で、その数は数十万人におよんだ。

織田信長(1560年~1582年頃)
・信長は1560年に桶狭間の戦いで駿河の今川義元を破り、京都にのぼって1568年に足利義昭を将軍に立てた。1573年に信長の命令に従わなくなった将軍義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡した。
・信長は近江に安土城をきずいて全国統一の拠点とし、経済力を強める為、楽市・楽座の制を推し進めた。
 1582年、武田信玄を滅ぼしたが、京都の本能寺で家臣の明智光秀に殺された。(本能寺の変)

豊臣秀吉(1582年~1590年頃)
・信長を引き継いだのは家臣の豊臣秀吉で、1583年に石本本願寺のあとに大阪城を築き始めた。1590年には、東北の伊達政宗も破り全国統一をなしとげた。

◎城の文化(1560年~1590年頃)
・信長、秀吉の時代をその居城の地名にちなんで安土桃山時代ともいい、その時代の文化を桃山文化という。桃山の名は、秀吉の伏見城跡に桃を植えたことに由来する。

◎町衆の生活(1600年頃)
・室町時代には茶道・花道・能・狂言が大流行した。茶席で用いられる茶碗は朝鮮出兵の時に諸大名がつれてきた朝鮮の陶工により、有田焼・萩焼などが始められた。

◎幕府の開設(1600年~1615年頃)
・信長、秀吉のあとを継いで政権を握った徳川家康は1600年関ヶ原の戦いで石田三成を破った。1603年征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。以後260年間、徳川氏の江戸時代が続いた。
・家康は将軍職を2年で子の秀忠にゆずり、大御所(前将軍)として実権を握った。
日光東照宮は徳川家康をまつっている。

◎身分と秩序(1650年頃)
・近世では士農工商と呼ばれる身分の別がたてられた。
・士農工商の下には「かわた」「ひにん」と呼ばれる賤民身分がおかれ、居住地や服装、生活の様々な面で制約を受けた。(17世紀後半に「かわた」の名称を「穢多」に切り替えていった)
・身分差を設けたのは、農工商の人々に、武士の支配への不満を紛らわせようとした為である。

◎宿場と飛脚(1650年頃)
・街道には宿場(宿駅)がつくられ、大名が利用する本陣や、一般旅行者用の旅籠屋(はたごや)などが軒を並べた。

◎江戸時代の出版(1650年~1750年頃)
・営利事業としての出版は江戸時代に盛んになった。1682年に井原西鶴の「好色一代男」が大流行。
・元禄時代に流通した書物は1000万部を超え、蔦屋等の版元が大量の書物を出版した。
・TSUTAYAの由来は創業者の先代の屋号が蔦屋であったことと、江戸時代の版元の蔦屋の両方からきているとのこと。

◎国学と尊王論(1700年~1750年頃)
・国学から、天皇が統治していた古代が理想の社会であったという考えが生まれ、尊王思想に繋がった。
・幕末になると尊王論は現実の政治運動と結びつき、明治維新を生み出す一つの勢力となった。


●● ピークパフォーマンス方程式 ●●
・皇室の祖先、天照大神をまつるのが伊勢神宮、大国主神をまつるのが出雲
 大社。
・鎌倉時代末期に宗派が整った。法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗、禅宗では
 栄西の臨済宗道元の曹洞宗が発展。
・織田信長は安土城を築き、楽市・楽座を推し進めた。京都の本能寺で明
 智光秀に殺された。
・信長を継いだ豊臣秀吉が大阪城を築いた。信長、秀吉の時代をその居城の
 地名にちなんで安土桃山時代という。
・信長、秀吉のあと政権を握った徳川家康が江戸幕府を開き、以後260年続
 いた。
日光東照宮は徳川家康をまつっている。
・・・2-②へ続く・・・