ためらいの倫理学

  内田 樹(たつる)  投稿日:2014年 9月18日(木)05時52分50秒
 
   武田鉄也氏が内田氏を私淑していることを知り6冊購入し2冊目を読了。感想としては非常に難しく何を言いたいのかも分かりにくい。
 基本スタンスは“自分が絶対的に正しい”ことを疑わない立場からの発言に対する批判であり嫌悪感である。これらは現在に至るまでの内田の言説に綿々とつながっているといえよう。その意味で本書はその原点である。

 大山鳴動して鼠一匹=大騒ぎした割に、結果が小さいこと。
(たいざんめいどうしてねずみいっぴき)
さまざまな社会的条件が私の視野を限定していること、それは確かである。
◎さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住みやすくしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。

 解放後、対独協力者の粛清という経験を前にしたカミュは、「条件さえ整っていれば、私たちは人を殺すことができる」というそれまでの立場を放棄し、弁護の余地なき罪人であるコラボたちの減刑嘆願に同意する。
 カミュはただ「暴力は不可避であるということと、暴力は正当化できるということは違う」という言い方で、「正義のためらい」を語った。それ以後、カミュの暴力論・・・・・それを、「ためらいの倫理学」と名付ける。


●● ピークパフォーマンス方程式 ●●
さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住みやすくしてくれるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。この考え方が、思想家・・内田樹氏の原点であると知った。