中国原論

  小室 直樹  投稿日:2010年 2月 6日(土)07時40分12秒
 
  中国社会の経緯は、タテの共同体である「宗族そうぞく」と、ヨコの共同体である「ほう」中国は幾重もの二重規範が入り乱れた社会であり、中国で一番大切なのは人間関係なのだ。

「ほう」の中の規範は絶対である。絶対に信頼でき、完全に理解しあい、そして生死を共にする。一点の疑いもない。これが「ほう」内の人間関係。

●毛沢東・・中華人民共和国を建国、初代国家主席。
●蒋介石・・共産党の反抗を受け台湾へ亡命。中華民国初代総統。

「中国人は信用できない」と言うときの大きなテーマの一つが、『事情変更の原則』だ。
中国には「三顧(さんこ)の礼をとる」と言う成語があるが、中国では、訪ねて行く方が下、訪ねられる方が上、礼では必ずそうなるのだ。中国人との間の人間関係形成には、時間と手間がかかるのだ。

資本主義社会と違い、中国では契約は絶対ではない。背後にある人間関係の軽重により、契約は軽くもなるし重くもなる。契約がどこまで守られるかは、背後の人間結合によるのだ。

タテの共同体「宗族」とは、父と子と言う関係を基にした父系集団だ。
仏教・イスラム教・キリスト教は、個人救済の宗教だが、儒教は個人救済など一切関係ない集団救済の宗教なのだ。

よい政治を行うことが大事とする中国では、政策が変われば個人と結んだ契約などどうでもいい。個々人がどんな迷惑を被ったところで「よい政治」の為ならば知った事ではない、と考えるのだ。

●始皇帝(享年49)・・中国最初の統一国家の初代皇帝。万里の長城の構築など、中華帝国2000年の基礎を作った。

法律とは人民を主権者から守るもの、と言うのが近代法の根本的考えで、法律とは政治権力から国民の権利を守るもの。人民が主権者から自分達を守る楯が法律なのだ。
ところが・・中国ではこのような精神が欠落している法家の思想(法教)で、中国の法概念なのだ。

法家の思想において、法律とは為政者・権力者のものなのだ。そして、法律の解釈は全て役人が握っているのだ。端的に言えば、役人は法律を勝手に解釈していいと言うことなのだ。
その上中国では法は統治のための手段なのだから、統治のために都合が悪くなったら、そんな法律は廃止してしまってもいいと言う事になるのだ。
中国の法体系は韓非子で完成した法家の思想の法律なのだ。熟読玩味すべきだ。

近代法の中心にあるのは民法、中国法の中心にあるのは刑法なのだ。

●徳川家光(享年47)・・第三代将軍、参勤交代・鎖国など江戸期の基礎政策を確立した。

会社は資本家の所有物であると言う資本主義の初歩の入門の手ほどきすら30年前の日本では知る人もなかった。今の日本でも同様だし、中国も同様だ。

君子とは、始めは諸侯・大夫・士と言う意味で、後には官僚という意味になる。

●吉田松陰(享年30)・・幕末の思想化。高杉晋作・伊藤博文を育てた。安政の大獄で刑死
●ヒトラー(享年56)・・ドイツ独裁者。ベルリンで自殺を遂げたとされる。
●ナポレオン(享年52)・・フランス皇帝。新憲法制定など近代フランスの基礎を作った。

中国人は、歴史を貫く法則は不変であると考える。
今の中国は「社会主義的市場経済」と言われるが、簡単に言えば「資本主義になりたがっている」と言うこと。資本主義と言う言葉を使えないので、社会主義的市場経済と言っているだけのこと。

中国人は「契約違反がわるいことである」とは誰も思っていないのだ。何故なら、守らないことに社会的制裁も受けない事も一因。中国には「資本主義的契約はない」のだ。
中国では、契約は交渉の始まりであり、契約はその為の意志表示なのだ。初めの契約は、深まり行く人間関係のスタートなのだ。

中国では、個人の間の人間関係・人間結合がすべてである。知人⇒関係⇒チンイー⇒ほういずれの段階であるかに従い「契約」の意味も異なるのだ。

結論は・・中国における契約の特徴は、人間結合の段階によって異なる。資本主義と違い、人間結合から抽出された「契約」と言うものは存在しないのだ。
中国の法律は・・未だ、人民を保護する役目をはたしていないのだ。


●● ピークパフォーマンス方程式 ●●
中国社会には、タテの共同体「宗族そうぞく」とヨコの共同体「ほう」がある。そこには二重規範が存在し大切なのは人間関係なのだ。
「中国人は信用できない」と言うのは、中国には『事情変更の原則』があるからだ。中国の儒教には、個人救済はなく良い政治を行うことが大事なのだ。個人がどんな迷惑を被ったところで「よい政治」の為ならば知った事ではない、と考えるからだ。中国では法は統治のための手段なのだから、統治のために都合が悪くなったら、そんな法律は廃止してしまってもいいと言う事になるのだ。