白洲次郎の日本国憲法

  鶴見 紘  投稿日:2009年 4月29日(水)14時56分58秒
 
  この本との出会いは白洲次郎のルックスを自分の晩年の理想像と感じたことが切っ掛けであった。日本国憲法についての学びを得ることはあまりなかったが、日本が満州国を作ろうとした事が世界中の反発を買い、結果として第二次世界大戦に突入したことをしった。

また、当時の日本は陸軍を中心に朝鮮や中国へ侵攻しレイプや残虐な行為をしつくしていたらしい事も解った。これはまるで、現在の北朝鮮やイラクと同じではないかとさえ思う。
Pampam パンパンとは終戦直後に占領軍兵士を相手にした売春婦のことである。

前首相の中曽根氏は、白洲次郎を「ディシプリン(規律)の権化のような人」と評しているが、正子婦人は「プリンシプル(原則)に忠実であった」と言っている。それは、イギリスの騎士たちは個人の立場に括弧たる原則(道)を築いたことからきており、日本人にはプリンシプルがないと言っている。

占領軍によるレイプ事件が多発し、それから一般女性を守るために内務省通達により慰安施設が各地につくられている。あえて一般から外れた女性を生み出したのである。

大日本帝国憲法は明治時代につくられたが、これは天皇制を頂点として成立していた。その解体をGHQは求めたが、なんとか維持をと考えた吉田首相等の頑張りで、天皇を象徴シンボルとすることになったのだ。

そのころ不足する電力に対し石炭が必要であったが、炭鉱労働者は主に朝鮮から不当につれてこられた人達であったが、終戦により彼らは帰国した。現代において、朝鮮人が過去の清算をと言うのも解る気がする。

軍隊を持たないと言う憲法は、我国が自ら作ったのではなく、占領軍総司令官のマッカーサー元帥によりアジアのスイスをと言う強い思いから出来ているものなのだ。つまり、戦勝国からつきつけられ何とかかんとか調整した結果、今の日本国憲法になったと言うことだ。

白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は兵庫県芦屋市出身の日本の実業家である。終戦直後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁(通商産業省)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の白洲正子。


●●ピークパフォーマンス方程式●●
第二次世界大戦のキッカケは日本の無理な満州国作りが一因であった事、日本国憲法の軍隊を持たない事も戦勝国より押し付けられた物であること。日本は朝鮮半島や、中国において物凄い事をやっていた過ちを犯していたこともしった。
何事も、バイアスのある情報だけでは真実は掴めないと肝に銘じておこう。