2024年8月1日。
西村慎太郎です。
9月7日に開催される「第10回浪江を語ろう!」では大字幾世橋についてお話ししますので、現在、大字幾世橋について勉強中。
前回までで『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。福島県編輯科旧蔵)に記されていた北幾世橋村の馬場家についての記事は終了しました。『奥相志』編纂段階の馬場家当主は弥右衛門周時。学問に優れている人物で、楽山という号でした。彼の墓碑が大聖寺に遺されていて、そこには錦織晩香の撰文がありますので、それを検証してみたいと思います。読点を適宜付けていきます。
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楽山翁墓碑銘
楽山翁以明治紀元八月二十一日歿於家、葬於村中大聖寺先塋、次享年六十六、法謚曰仁誉道光楽山居士、門人議建碑于墓、請余為之銘、翁周時称弥右衛門、楽山其号、中村士族天野周成第二子也、幾世橋馬場某養為子、以其女配之某、相馬矦臣世為著姓、
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現代語訳と解釈をしてみたいと思います。
楽山翁は明治元年(1868)8月21日に自宅で亡くなりました。ちなみに9月8日に明治となっているので、正確には慶応4年8月21日です。北幾世橋村の大聖寺にある馬場家先祖代々の墓へ葬られました。享年66歳。法名は仁誉道光楽山居士と言います。
楽山の門人たちは墓に建碑することを相談して、私(錦織晩香)に銘文を依頼してきました。
翁周時は弥右衛門と称し、楽山がその号です。中村城下町の士族・天野周成の第二子です。幾世橋の馬場某の養子となり、その娘と結婚しました。相馬藩主の家臣でして、世に名門である家がこの馬場家です。