2024年7月6日。
西村慎太郎です。9月7日に開催される「第10回浪江を語ろう!」では大字幾世橋についてお話ししますので、現在、大字幾世橋について勉強中。
引き続き『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。福島県編輯科旧蔵)を用いて大聖寺について見てみたいと思います。
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明應中 前盛胤公与標葉清隆・隆成父子闘戦、為兵燹、伽藍焚焼、至法流・𦾔記等悉火失、清隆滅後為相馬封内、後移于泉田邑、為泉田氏護持寺、而尚當郡之檀林也、然法流断絶、至當寺四世堅済之時、為岩迫山歓喜寺末寺、
安永元年壬辰四月八日火災、寺堂灰燼、二癸巳年堅清之時、客殿造立焉、
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明應年間(1492~1501)に相馬盛胤公と標葉清隆・隆成父子が戦い、兵火(「兵燹(へいせん)」)のため、伽藍が焼失し、法流・旧記などに至るまで悉くなくなってしまいました。標葉清隆滅亡後、相馬氏の領有となり、大聖寺は泉田村へと遷って、泉田氏の護持寺として標葉郡の檀林(僧侶の学問所)となりました。
その後、法流が断絶してしまい、当寺四世堅済の時に岩迫山歓喜寺の末寺になっています。現在でも歓喜寺は相馬市内にあります。安永元年(1772)4月8日に火災があり、堂宇が灰燼に帰し、翌年客殿を造立しました。住持は二十世堅清の代の時です。