調査日誌191日目 -室原の古舘趾①- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年5月10日。

 

2回にわたって「室原の滝壺」と称された「室原瀑布」について、『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)より検証してみました。前回書きました「滝不動」って、Google Mapにも記載されているんですね!!🤩 2022年策定の『浪江町特定復興再生拠点営農再開ビジョン』を見る限り、特定復興再生拠点外のため、立ち入りが制限されているるようですが、機会があったらぜひ行ってみたいです。

 

さて、中世段階、標葉氏が統治していた時には標葉氏の一族である室原氏が拠点としていたことが知られています。つまり、請戸―本城(権現堂)―室原というように請戸川に沿って標葉氏の北端の領域が東西に広がっていました。国道114線は遅くとも中世以来の道路と考えられます。

 

その室原氏の館については『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)に掲載しており、室原氏などの歴史も記載されていますので、本日からそれを見てみたいと思います。適宜、読点を付したいと思います。

 

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古舘趾 在上臺南、名筑後舘、下有池塘、佐藤筑後守居址也、筑後後裔在民間、於今傳武器、為珎焉、或曰、室原氏居址也、室原氏者標葉氏傍統而、世々食室原邑、以為氏焉、標葉勲臣七人衆之其一人也、古記曰、明應元年標葉清隆為我所滅、其臣雖頗属我、室原〈摂津守隆宗〉・牛渡・郡山含憤、頼岩城、欲報仇、雖然、恐我武威、遂来服、賜𦾔食邑、出六騎〈應仁二年戊子三月廿六日有定胤公賜采地仍旧之印證、應仁中之去明応二十余年、由是観之、應仁属我、至明応反乎〉、

 

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簡単に現代語訳しつつ、解説してみたいと思います。

 

古舘趾、上臺南にありました。この「上臺南」という小字名、現在の室原地区には確認できません。該当場所をご存知の方、ご教示ください(たぶん、埋蔵文化財包蔵地になっているだろうから、すでに室原館趾は知られていることと思われますが😅)。

 

この古舘は「筑後舘」と称されて、その舘の下にため池がありました。農業用ため池だとしたら、これを築堤できるだけの勢力がいたってことですね。

 

この舘は佐藤筑後守が住していて、佐藤筑後守の末裔はこの地域に居住しているとのこと。『奥相志』編さん段階には武器が伝えられていて、宝物と成されています。佐藤筑後守末裔の方がいらっしゃいましたら、お話しをうかがいたいところです🤩

 

別に、室原氏が住していたともいわれています。室原氏は標葉氏の傍流で、代々室原村を領していたので、室原氏と名乗ることとなりました。「標葉勲臣七人衆」のひとりです。古い記録には標葉清隆が明応元年(1492)に相馬氏によって滅ぼされた時、多くの家臣は相馬氏に仕えましたが、室原摂津守隆宗・牛渡氏・郡山氏は怒って、岩城氏を頼って、主君の仇討ちをしようを考えました。しかし、相馬氏の武威を恐れ、ついに相馬氏に服従し、もともとの室原村を領することを認められて、軍役6騎を出すこととなりました。

 

なお、割注にも書かれていますが、応仁2年(1468)3月26日に相馬定胤公より古来からの土地の領有を認める印判状がありました。応仁年間(1467~1469)は明応年間(1492~1501)から20余年前のことなので、このことを踏まえれば、応仁年間に相馬氏に属して、明応年間に相馬氏に反したのではないか、と『奥相志』の編纂者は推測しています。

 

但し、これは単純な支配関係ではなく、標葉氏の一族として室原村を領しつつ、相馬氏からも領有を認められていた両属的な関係であったものが、相馬氏による標葉郷侵攻に伴って、標葉氏側として戦ったということなのではないでしょうか。

 

いずれにしても「古舘趾」の記述はまだ続きますので、追って見てみたいと思います。