調査日誌157日目 -北幾世橋村北原御殿について①- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年4月6日。

 

昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ていましたが、幾世橋村出身の衆議院議員で、「標葉氏墓碑銘」と篆額を書いた釘本衛雄について、資料を集めていましたが、よく考えたら、そもそもの北幾世橋村・幾世橋村のことをちゃんと理解していないことに気が付きました😅

 

そこで、『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)から、泉田村(現在の浪江町大字北幾世橋)に存在した北原御殿について見てみたいと思います。最初に述べますが、北原御殿とは、江戸時代の藩主である相馬昌胤が泉田村に居を構えた隠居所のことです。

 

かなり長文なので、何回かに分けます。

 

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北原御殿 昔在北原山荘、後徒興仁精舎于此地、

建廟嘗襲家秩、鎮撫社稷、二十二年而齢既逾不惑、謝病、譲職、請彊内浴野上温湯養痾、元禄十四年辛巳四月十一日発軫江戸邸、嘗考版図、察地勢、泉田邑北原地、北丘陵、南平田、東蒼海、加山河襟帯、公愛之、故闢榛棘、以経営莬裘、(次回続く)

 

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北原御殿についてです。

「建廟」すなわち建徳院殿勢誉峻岩孔照大居士の戒名を有する相馬昌胤が家督を相続して、国を治めること22年、不惑の年となりました。病となり、家督を譲り野上温泉(現在の大熊町大字野上)に湯治に行くこととしました。元禄14年(1701)4月11日に江戸の藩邸を出発しました。領地と地勢を考え、泉田村北原の土地について、北は丘陵地、南は平らな田園、東は海であり、加えて、山と川の要害の土地でした。この土地を昌胤は愛して、雑木を伐採して、隠居所としました。
 
これが北原御殿の最初です。