調査日誌112日目 -昭和8年の標葉氏顕彰碑の舞台となった正西寺③- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年2月21日。

 

西村慎太郎です。

標葉氏の顕彰運動について、諸史料(補足。「史料」は文字資料のことを指します。具体的には古文書などの紙媒体の文字資料です)から検討しています。

 

昭和8年(1933)の標葉氏顕彰碑が建てられたのは正西寺境内地。もちろん標葉氏の墓があったことに基づきますが、もともとは華光院の境内地であり、明治期に華光院は仲禅寺と合院したこと、正西寺はその後大堀村(現在の浪江町大堀)より移転してきたこと、顕彰運動の主体が大字川添に住んでいた移住者であったことを踏まえると、この顕彰運動の様相が少し見えてきそうです。

 

引き続き、正西寺について見てみたいと思います。前回に引き続き『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)大堀村の項目から正西寺の記事を抜粋します。

 

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寺社好問志曰、在昔大堀邑農夫某皈門跡派、上京、詣本願寺、薙染而見允寺号、皈𦾔里、立佛宇云々、本文所謂小丸氏没後猪股長四郎入佛門矣、然則長四郎落魄民間、後為緇徒乎、寛文八戊申年有諸国新寺建立禁止之令、謂元和中制禁誤矣、

嘉永之頃當寺善成無嗣子、以中村長願寺留守林應為養子、時賞林應新戸三百軒取立之功、改長願寺号正西寺、以当寺為隠居寺旨有命、二年己酉七月當寺雖隠居寺與中村正西寺同格、位次可従住職継目之先後旨達之京都本願寺被命旨大越八太夫・幾世橋作左衛門傳達之

 

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今回の部分ですが、ここで『寺社好問志』という書物が登場します。この書物についての詳細は不明。『国書総目録』には掲載されていません。この『寺社好問志』には、正西寺建立について別の逸話が掲載されています。

 

昔、大堀村の農夫が上京して、本願寺を詣でました。そこで出家して、寺号を許可されましたので、大堀村に戻って、堂宇を建てたとのことです。しかし、すでに以前のブログでも記しましたが、『奥相志』に掲載された正西寺の発端は小丸氏一族の猪股長四郎が零落(「落魄」)して出家(「緇徒〈しと〉」)したということになっています。

 

さて、嘉永年間(1848~1854)、正西寺善成には継嗣がいなかったため、中村長願寺の林應を養子としました。この林應は新百姓を300戸取り立てたという功があったので、長願寺を改めて正西寺と号することを認められました。そして、大堀村正西寺は林應の隠居寺となりました。嘉永2年7月、中村正西寺と同格の扱いにするという達しが京都の本願寺より届いた旨、相馬藩の大越八太夫・幾世橋作左衛門から伝えられました。

 

新百姓取り立てに関わった林應、なかなか興味深いですね🤩