調査日誌82日目 -『浪江を語ろう』のレジュメ作り中 失われた寺院 北幾世橋 興仁寺- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年1月22日。

 

西村慎太郎です。

2月24日に『第8回浪江を語ろう!』を開催し、西村は「82ヶ寺もあった浪江町域の寺院」という報告をします🤩 『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)から浪江町域の寺院を調べたところ、なんと82ヶ寺もありました。

 

本日から浪江町域で最も大きかった寺院、北幾世橋村の興仁寺について見てみたいと思います。まずは『奥相志』の記述です。かなり長い記述でして、大きな寺院であったことがうかがえます。中略を挟みながら何回かに分けて執筆してみたいと思います。

 

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崇徳山豊安院興仁寺 在満海、知恩院宮直末、相馬三郡浄土宗本寺、相馬先君香光院也、開山要誉信知寅載上人、開基御史中丞平昌胤公、称再興知明寺〈香積山花光院末寺、在辻村、一曰在高野村〉久廃、宝永五年戊子八月廿二日創建焉、故初号知明山、寄寺田百石六合、且齋料米十五苞銭五貫文、施餓鬼料米一苞銭二貫文寄之、永代自公悉修造諸堂、昌胤公詠歌曰、幾世々ノ霜ハフルトモ此寺ノ御名ヲ唱フル声ハ絶メヤ、

 

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崇徳山豊安院興仁寺は北幾世橋村満海(まんかい)にありました。現在、満海は万海と称されています。浄土宗本山の京都・知恩院の直末寺院(直接の末寺)でした。そして、相馬三郡の浄土宗本寺として相馬氏の「香光院」と位置づけられています。「香光院」とは、先祖の菩提を弔う寺院のことです。

 

開山したのは要誉信知寅載上人。寅載上人については、大島泰信『浄土宗史』(『浄土宗全集』20、山喜仏書林、1976年)に記されています。慶安3年(1650)に相馬で生まれて、興仁寺の後、江戸の増上寺に入り、経蔵司などの要職に就きました。宇治山田へ隠遁して、享保6年(1721)に72歳で没しています。

 

開基は御史中丞平昌胤公、つまり相馬藩主の相馬昌胤です。「御史中丞」とは、弾正少弼という官職の中国名です。

 

興味深いこととして、現在は国道6号線と国道114号線が交錯する「知命寺」交差点の名前の由来となっている「知明寺」を再興して、宝永5年(1708)に創建されたのが興仁寺でした。そのためもともとは「知明山」いう山号でした。

 

寺領として100石6合、別に齋料米(供物米)銭5貫、施餓鬼料(供養料)2貫文がが昌胤より与えられています。そして、昌胤は興仁寺に対して和歌を詠んでいます。

 

幾世々ノ霜ハフルトモ此寺ノ御名ヲ唱フル声ハ絶メヤ

 

そんな和歌が詠まれた興仁寺ですが、明治になって相馬氏からの援助もなくなり廃寺となったため、念仏を唱える声が聴こえなくなってしまいました。