調査日誌(勉強中)114日目 -「十日市記念碑」を書いた西植堂- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年7月4日。

 

浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

前回は明治28年(1895)建立の「十日市記念碑」の内容を分析してみました。この「十日市記念碑」の撰文は西齋治という人物ですので、今回は西齋治がどのような人物なのか、確認してみたいと思います。

 

 

西齋治については『浪江町史』(浪江町教育委員会、1974年)636頁に記されています。

天保13年(1842)~明治32年(1899)幾世橋出身の人物で植堂と名乗りました。以下、『浪江町史』の記述を引用したいと思います。

 

 若くして東都にいで芳野金陵(明治十一年没)に学び、

 のち幾世橋に私塾「高爽享(ママ。亭)」を開き青少年

 の教育に従事、当時錦織晩香と並んで幾世橋を地方

 学問の中枢地となした。塾生また数百人、先生没後

 門人と相はかって「植堂文庫」を建てた。

 

また、『双葉郡誌』(児童新聞社、1909年)190頁~191頁にも記述があります。

 

 西齋治は本郡幾世橋村の人にして中村藩士なり。植

 堂と号す。資性温厚にして誠実、少時東都に出で吉

 野(ママ)金陵に学び、学古今に渉り経史に通ず・子

 弟の教育を以て畢生の事業となし、私塾を開き高爽

 亭と名く。従遊の諸生殆んど数十里に及び、贄を執り

 業を受けしもの七百余人に至れり。盖し地方の文化

 を助け人力を養成せるの功決して尠少にあらざるな

 り。先生歿後門人相謀りて植堂文庫を建て、以て報

 恩の意を表せりし云ふ。

 

と、あるのですが、残念ながら、管見の限りでは著作などの一次資料が確認できず、彼の学問については全く不明です😅

但し、「十日市記念碑」と同様に多くの石碑の撰文を著したものと思われ、『双葉町史』によると、両竹の泉田章成墓碑、山田の天野多三郎翁報徳碑、鴻草の大黒屋報徳之碑は植堂によるものです。このあたりから彼の学問や思想を考えることができるかもしれません(思想史研究はそんなに甘くない😅)。

また、植堂の師である芳野金陵については、2015年に二松学舎大学・柏市教育委員会共催企画展「芳野金陵と幕末日本の儒学」が開催され、図録がPDFで見ることができます。

図録『芳野金陵と幕末日本の儒学』