調査日誌(勉強中)113日目 -十日市記念碑- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年7月3日。

 

浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

前回は多くの浪江町民にとって思い出のある十日市について確認しました。今回はその十日市の由来が分かる明治28年(1895)建立の「十日市記念碑」の内容を分析してみたいと思います。

 

 

2021年6月28日撮影。左「浪江駅換線碑」、右「十日市記念碑」。

 

 

 

※読点引用者。

 浪江之為駅、跨国道之枢衢、恒有商業権、立諸村之中間、

 恒有販売之便、又近控海山、有薪炭漁塩之利、凡於経済

 之途、如得其大要者矣、然而斯市未開設也、駅内蕭條、富

 家恒寡、貧戸常衆、且屡罹不虞災害、資材窮乏、物力凋弊、

 商業為是不振、駅内益困云、里正齋藤是利以為衰廃至於

 此、賑救之策不可一日緩也、周旋先衆、與同志者請命於

 県庁曰、祈鎮火、願繁栄之意也、官可之、於是始開一市、

 以毎歳村社之祭日陰暦三月十日及十月十日為期、称十日

 市矣、実明治六年十月也、毎年際此期、来聚者萬数、勢如

 沸、填烟于駅路間、商業随振、市況極盛、駅内自此改面目、

 車馬之往来日漸繁、商売出入月漸庶、財貨通融、百物輻

 輳、一旧廃之跡宛然有都鄙之趣、嗚呼開市以来二十二年、

 至於今矣、果不差発業之意、成績所及既如此、豈不亦偉

 哉、嚮駅人會合、相與図建碑以示永久、會征清之役起、不

 果、主唱者鈴木常松・鎌田宗兵衛恐其久而事或沮隔、及

 役平、來請余文、余謂寔不愧於今代開明之挙、乃載筆、而

 不辞也、銘曰、

  於赫維市

  何業之隆

  利克與廃

  澤克賑窮

  民因以富

  財因以豊

  績洽閭閻

  名溢国中

   明治二十八年十一月 西齋治撰 石井久堂書

 

内容のポイントは次の点です。

・浪江の宿場は交通の要衝であり、近くの村からも近くて商売しやすい。また海や山が近くて薪炭や魚・塩が集まりやすい。

 

・しかしいまだに市が開設されておらず、裕福な家は少なく、貧しい家が多かった。さらにしばしば災害に遭っており、町は衰退していた。

 

・村長の齋藤是利は振興策を立てる必要を感じ、同志とともに県庁に市を開くことを願い出て、許可された。

 

・毎年神社の祭礼の旧暦3月10日・10月10日に市を立てることとし、「十日市」と称するに至った。明治6年10月のことである。
 

・市が開かれてやって来る人びとは万の数に及び商業は盛んになった。

 

・市が開かれて22年、偉業を讃えるための石碑を建立する計画が図られたが、日清戦争のために中断することとなってしまった。

 

・しかし、あまり時間が空いてしまうことを懸念した鈴木常松と鎌田宗兵衛は日清戦争が終わって私(西齋治)に文章を依頼してきた。

 

十日市開設を願い出た齋藤是利村長についてですが、どういう方なんでしょうか??😅 というのも、『浪江町史』(浪江町教育委員会、1974年)には一切彼に関する記述がないのと、そもそもいつかからいつまで村長だったのか分かりません。実は村長も分からないんですが、そもそも明治初期の権現堂村の組織自体全然分からないんですよね😅

十日市が開かれてから22年目に鈴木常松と鎌田宗兵衛が建碑計画を進めています。鈴木常松は以前もこのブログで紹介した鈴木大久家、近代浪江の商業に大きな足跡を残した家です。鎌田宗兵衛については現在調査中。藩の目付を務めて「浪江駅換線碑」建立に関わった鎌田彦之丞と関係があるのでしょうか??