2021年6月3日。
さて、浪江町権現堂、
大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊
前回は大正7年(1918)頃に作られたと思われる「浪江町の歌」について検証してみました。作詞した門馬豊八がどのような契機でこの歌を作ったのか、どのような時に歌われたのかなど判然としない点も多いですが、おそらく戊辰戦争50年を迎えるタイミングに、地方改良運動で浪江町が急激に変化する中で作られたものと思われます。そう考えると大正7年前後は浪江にとって大きな変化の時期といえるかもしれません。
同様に、この時期のひとつの出来事として、大字権現堂の南側である大字高瀬に丈六公園が造成されたことが挙げられます。そして、丈六公園造成の際に短歌(和歌)も詠まれています。
今回は、石井清巳『現今之浪江町』(石井清巳、1918年)47頁~51頁の記述に従って、丈六公園十二景とこれを詠んだ権現堂新町の常盤芳秀について確認してみたいと思います。
丈六公園は大字高瀬の丈六山に大正4年11月10日に造成されました。丈六山については、近世末期に編纂された『奥相志』の記述に従って述べてみたいと思います(『相馬市史 4 資料編1』、相馬市、1969年、1087頁)に次のように記されています。
丈六山 往昔徳尼御(ママ)〈海東小太郎平成衡後
室〉阿弥 陀・釈迦両堂開建の古蹟なり、仏像長さ
一丈六尺、 故に丈六山と号すと云ふ、礎石・瓦等
今尚存す、後 世に至り堂頽破し、再建する能はず、
釈迦を境界邑東医寺に遷し、阿弥陀を樋渡邑法蓮
寺に遷す〈今両寺に在る仏像は丈六に非ず、是は
古伝に非ざるか〉
もともとは岩城氏の先祖である海東小太郎の後室である徳尼御前が阿弥陀堂と釈迦堂を建立し、その仏像が1丈6尺(約4.85メートル)であったことから、丈六山という名称になったようです。両堂は荒廃してしまい、ここに安置されていた仏像は他の寺院へ遷されたようですが、この話をすると長くなるので、ここでは割愛します😅
さて、この丈六山の9反3畝余の地を大正4年11月10日に公園として整備しますが、これは大正天皇の即位礼記念によるものです。そして、この造成に際して「本町松園常盤芳秀の公園十二景を詠める和歌」が誕生しました。
館山春色 丈六や登りて見ればほのぼのと春雨霞む花の館山
高瀬川夏月 行く水の音も高瀬の川浪に砕けて見ゆる夏の夜の月
小高瀬過雁 秋深く霜夜の空に月冴えて雁鳴き渡る小高瀬の里
上野原暁雪 上野原松の梢も花のごと真白にふれり今朝の初雪
高瀬川古戦場 戦へし面影浮ぶ高瀬川瀬々の川浪音高くして
常磐線汽車 一と筋の煙を立てゝ走り行く車屋形の早くもあるかな
浪江町全景 軒並に御旗かゝげて浪江町君が代歌ふ声ぞ聞こゆる
浦山時雨 一とむらの浮雲見えて浦山のうら寒けにも時雨ふるらし
請戸橋夕照 立と見し霧さへ晴れて請戸橋夕日を渡す影そさやけき
請戸帰帆 真帆片帆やゝ見えそめて請戸沖夕日に帰る蜑の釣舟
葵茎晴嵐 見渡せば葵の茎の峰続き村雨晴れて松風ぞ吹く
国見山遠景 心ありてわれに見よとや国見山雲霧分けてあらはれにけん
最初に「館山春色」という歌を持ってきましたが、おそらく常盤芳秀にとって館山=権現堂が見える光景が最も印象にあったものと思われます。彼自身は大字権現堂字新町の住民なので、丈六公園からの眺望で春雨で霞んでいる権現堂城跡に美しさを感じたのでしょう。
さて、その常盤芳秀ですが、市川大祐さんの「明治期福島県における肥料流通 -県内肥料流通の数量的検討-」(『季刊北海学園大学経済論集』60-3、2012年)という論文に「浪江の沢井屋・常盤(常盤芳秀)」として登場しているので(92頁)、以前のブログでも記した澤山堂澤井屋常盤今朝吉家の人物と思われます。
調査日誌(勉強中)38日目 -明治42年の浪江町内の企業・店舗-
福島県教育会双葉部会編纂『双葉郡誌』(児童新聞社、1909年)の広告によれば、常盤今朝吉は「和洋菓子・掛物・打物類其他品々・澤の飴・罐詰各種・砂糖類・メリケン粉・相馬陶器類・ボール箱・甘藷・菓子種子類・大黒種子・薪炭・煙草・洋酒類」を取り扱う総合商社です。
市川論文によれば、常盤芳秀は明治30年代に人造肥料の販売を開始したと記されています。また、相馬藩士で明治になって幾世橋に住した文人・錦織晩香の「錦織晩香小伝」を常盤芳秀は執筆していますが、そこには万延元年(1860)~大正9年(1920)と記されており、彼の生没年が明らかとなります(『百回忌記念錦織晩香遺墨集』浪江町郷土史研究会、1990年、36頁)。
今後、常盤芳秀と常盤今朝吉についても確認をしてみたいと思います。