駿河男児ボクシングジムの木村蓮太朗が対戦相手と共に計量失格がありましたが、もはやニュースを聞いて驚きも何もなく、
「ああまたか」と感じただけでした。
まあそれくらい最近この手の話が続発しているのか?
はたまた話題になるから取り上げられているだけで実は以前からこの頻度であったのか?
全試合チェックしている訳では無いので正確には分かりませんが、たしかに以前・・
といっても20年以上むかしの世界タイトルマッチで、チャンピオンのフレディノーウッドが松本好二戦での計量失格でタイトル剥奪された頃には、
「へぇ!そんな事もあるんやなあ~」
と思った記憶があるので、当時では珍しい話だったのかと思います。
私はボクサーの減量についてはまったくのシロウトで、せいぜいジョー小泉氏の [ ボクシングは科学だ ]を読んで得た知識どまりですから、減量方法と多発の関連性についてはなんとも言えませんが、
ここでは前から書こうと思っていた、まったく違うひとつ別の仮説を立てたいと思います。
これは感覚的にひょっとしたらそうじゃないの?
と感じているだけですが・ ・ ・
今まではプロモーターやジムが絶対で、
何がなんでも計量をクリアしなければならない!
命を懸けてもウェイトを落とさねばならない!!
だったのが変わって来たのかな?と。
どういう事かと言いますと、選手の自己主張というか。
もちろん計量失格のなにが自己主張やねん!
と思う方も多数おられると思いますが、
なんというか、そこまでしてムリせんでもエエんとちゃう?
という感覚ですか。
例えば熱があってもムリして会社や学校に行く。
台風の警報が出ていても多くの人はとりあえず会社に向かいます。
で、電車が運休になってタクシー乗り場に長蛇の列というアレです。
最近の学校は流石に休校となりますが‥
私が子供の頃は大抵の事では休校になりませんでしたし、熱でも学校に行って保健室で横になっとけ!程度で中々休ませてくれませんでした。
私達はそういうのが当たり前な感覚の世の中で育って来ました。
で、それはいま現在でも自分の感覚の中に責任という固定概念としてこびりついている。
いわゆる「まるで昭和やん」と言われる習慣です。
それと同じで、現役ボクサーの中にもこの概念に違和感を持つ選手が居て、
「ま、ムリして怪我しても困るのは自分。それで誰かが責任取ってくれる訳でもなし。なら別に文句言われてもエエか」
と無意識のうちに感じて放棄してしまうという。
最近は今まで性善説で成り立っていた物事が崩壊していますよね。
それは悪い事ばかりでなく、暗黙の了解と呼ばれる旧き悪しき風習を淘汰させるという側面もありますが、ボクシングにおいても守るのが “当たり前” だった階級制度に潜在的クエスチョンを抱く選手が現れ始めたのかな‥?
私はそう仮説してみました。
話が飛躍し過ぎているな‥
と、書いていて自分でもすこし思いますが、こんな仮説もいま世の中で起こっている事を考えればなきにしもあらず?
そうなれば近代ボクシングの崩壊になりますが、代わりに日本人の大好きな真実のパウンドフォーパウンドは実現しますよ。