※当時寮の掲示板に貼られていた新聞をスクラップして集めていた時の物です。


私が高校一年生の三学期、ちょうど今と同じ時期です。


1990年の2月は当時ボクシングを観ていた日本のファンにとって生涯忘れられない月になりました。


この時すでに日本人ボクサーの世界チャンピオン不在は1年以上を過ぎ、挑戦者の連続失敗記録は21にまで延びていました。


日本は我が世の春を謳歌するバブル景気の絶頂期。若い世代の人間はお金が無くても希望があり、新人類と呼ばれてハングリーや汗臭さとは縁遠くなって来ていました。


ボクサーも世界チャンピオンを続出していたお隣の韓国選手に比べると、見るからにひ弱で華奢な体躯で頼りない感じに見えました。

世界に挑戦した時にそれは顕著に現れ、マトモに戦えた試合すらほとんどありませんでした。


「ジャンクフードばかり食べる今の日本の若者は骨も脆くなりボクシングに向かなくなったのでは」?


ジョー小泉さんが何かの媒体でこの様に発言されていたのを聞いて納得したものです。


自分も当時同じ若者でしたから、当事者として日本人の世界チャンピオンはもう見れないかも‥

フランスでも30年近く世界を獲れていないとかで(当時)日本も同じ様になるかも知れない…


と真面目に悩んでいました 笑



そんななか大橋秀行がJr.フライから一階級落とし、ストロー級(私はやはりこの名称の方がシックリ来る!

ミニマムって…ミニマム→ミニ→豆タンク→チビッ子を連想 (-_-;)ミクロ級とかマイクロ級と変わらん)の世界タイトルに挑戦が決まり、連続挑戦失敗最後の切り札としてファンは大いに期待しました。


しかしこの大橋、既に二度も挑戦失敗しているのにまだ切り札とはこれ如何に?


まだスレていなかった私は素直に思いました。

と同時に、中学の友人が大橋ならナパに勝てる!と断言したあの力強い言葉を思い出しました。


大橋は最軽量級とは思えない破格の強打の持ち主。

軽快な動きをするボクサーが多いなか足を止め、至近距離からのアッパーとカウンターを駆使する戦法は被弾も多くいつもハラハラしましたが、そのスタイルは武士の斬り合いの様で痛快でした。


当初前年に井岡弘樹を完膚なきまでに葬り去ったナパへの挑戦かと思われましたが、そのナパが韓国であっさり陥落。新チャンピオンの崔漸煥への挑戦が決まりました。


崔はゴリゴリの韓国ファイター。激戦は必至でした。しかし戦前の予想は期待も込めて、一階級落とした大橋の強打が今度こそ炸裂して世界を奪取する!という声が多く聞かれました。


それほど日本に世界のベルトが渇望されていたのです。

本当にあの頃のボクシングファンの世界チャンピオンベルトへの想いは今思い返しても胸が熱くなります。


そうこうしているうちにお正月を過ぎ、

いよいよ1990年代に突入しました。


そしてマイク・タイソンが来日します。

同じ2月に2年前と同じ東京ドームで防衛戦を行う為です。

しかし初来日の時ほどの盛り上がりもワクワク感もあまり感じませんでした。


挑戦者はジェームス・バスター・ダグラス。

2年前のトニー・タッブスより長いラウンド持ってくれたら‥

そんな扱いの選手でした。

ダグラスに限らず、当時のタイソンの対戦者はみなこの予想でした。


来たるべきスーパーファイト、最後の挑戦者と言われたイベンダー・ホリフィールド戦前の巡業顔見世といったところです。


ところで私の中で崔漸煥VS大橋秀行の試合と、このタイソンVSダグラスは、対というかセットです。

何故なら同じ時に経験したあまりにも大きな出来事として刻まれているからです。



つづく。