1989年は平成元年であり、私はこの年の春から一年遅れで高校へ進学。全寮制の学校だったので4月に入寮しました。


日付は4月10日月曜日。

何故正確に覚えているかと言いますと、その2日前の8日にWBA世界Jr.バンタム級タイトルマッチがあったからです。


チャンピオンはタイのカオサイ・ギャラクシー。

当時9連続防衛中で、井上尚弥より30年以上も前に怪物と恐れられていたボクサーでした。


軽量級とは思えない肩幅。

消しゴムの様にま四角な風貌。

見た目と中身がこれほど合致するボクサーは今に至るまで見た事がありません。


そんなタイの怪物に挑む日本の刺客は松村謙二。

私の地元である兵庫県にある高砂市出身。すぐ隣り町にあった加古川神戸拳所属の選手でした。


先日見事戴冠したユーリ阿久井ではありませんが、今にして思えばこの頃は地方都市ジム所属の世界挑戦者が結構居ましたね。

バブル景気真っ只中だったのでスポンサーが見付かりやすかったのもあるかも知れません。


ちなみに当時の評判は相手が悪すぎる!

残念だけど序盤で倒されてしまうのは必至…

位のミスマッチ扱いだったと思います。

その直前に行われたWBA世界フェザー級戦、アントニオ・エスパラゴサVS杉谷満の方があわや一発感はまだありました。


ま、この二人に限らず、この時期の日本人ボクサー全般の戦前予想は希望的観測ばかりでした。

本当に2024年現在からは想像も付かない位に世界が遠かった(= 現代が薔薇色の幸せな時代とも言い切れないのが哀しいところでありますが‥)!


さて2日後に迫った入寮に私は気が気でなく、大袈裟でなしにごはんも喉を通らない位に緊張していました。これから始まる地獄の様なスパルタ生活に付いていけるだろうか?と不安な事ばかり考えていた様に覚えています。


そんな私が初めて観た松村謙二は、テレビの向こうで体躯がまるで違う怪物相手に臆することなく向かって行っていました。


7.8.9..と予想を超えたラウンドを重ね、解説の渡辺二郎が松村優勢と言う位の試合を魅せてくれました。しかし松村は10ラウンド遂にダウンを喫し大ビンチ!もう終わった‥と私は諦めましたが松村は立ち上がり、最終ラウンドではグイグイ前に出てカオサイを追い続けました。


判定はカオサイでしたが、松村謙二一世一代のボクシングは私の心をつかんで離しませんでした。


その秋に神戸で再戦した時は私はすでに寮の中で生中継を観れず、翌日掲示板に貼り出された新聞で返り討ちにされた事を知り悲しかったのが忘れられません。


自分の贔屓のボクサーが大一番で敗れたら感じる切なさを初めて感じさせられたのがこの時でした。


その後韓国で文成吉に不完全燃焼の挑戦、そして既に力無く完全な引き立て役としてリングに上がった鬼塚勝也との対戦。

鬼塚の過剰なナルシシズム演出の中でパンチを浴び続ける松村の姿を見て時の流れを強烈に感じさせられたものです。


しかし松村の飽くなきガッツはまだ続き、

翌年アンタッチャブル川島郭志の日本タイトルに挑戦。遂に力尽きました。


風貌もボクシングスタイルもあか抜けなくて、しかしまあよく四度も世界に挑めたものだな‥

と冷静になれば私もそう思いますが、思春期から青年になろうとしていた私の目にはとてもカッコよく映り、その想いは今も変わらず持ち続けています。


そして世界チャンピオンのベルトを一度で良いから巻かせてあげたかったと心から思えるボクサーの一人でした。それだけに鬼塚に挑んだ時は


「鬼塚!松村に負けてやって!頼む」!!


と真面目に思ったものです 笑



余談ですが、畑中清詞がペドロ・デシマに挑んだ試合の解説が何故か松村で、デシマを転がしまくった畑中の大チャンスに

ヨッシャー!行けー!!オー!!ッシャーー!!!

と今の内藤大助みたいに叫んでいた解説だったのを見て


「この人は本当にボクシングが好きで好きでたまらないんだな。自分は挑戦失敗しているのに好い人だなあ」

と、ますます好きになりました。



松村謙二は今も私のアイドルです。