小さな学級から大きな社会へ ~ 三間シュンの教育実践の源 -4ページ目
昔のことを思い出して書く。
教育委員会から特別支援学級を無視した制度を押し付けられた。
詳しくは書けないが、その制度をもとに私を含めた数人が役割を分担することになり…。

「この制度は特別支援にいる子どもや担任の今をないがしろにする制度ですよね?役割分担を変えるわけにはいかないものでしょうか?」
とその制度の役割分担をしていた担当教諭に話すと、
「それは俺の担当じゃねぇんだから、俺に言うなよ!じゃあ、どうすればいいとか!?」的な言葉を返され、その役割分担の場の雰囲気は一気に悪くなった。
「じゃあ、どんなでもいいです」と言って、身を引いた私。
そのあと、「先生の気が済んでいないんなら、それを言ってから決めようや」となぜかなだめ始めた担当教諭。
いらっとして、「別に大丈夫です」
と返しただけで終わってしまった。

~後悔~
怒りをぶつけられた後に、「それは何に対する怒りですか?制度ですか?それとも私自身ですか?」
と問い返せばよかった。
苦しむ立場になる特別支援学級の担当のことを理解してほしいと、制度のおかしさを共有したいと思っただけなのだから、そのことに気づかせるチャンスを逃してしまったような気がしてならない。
テンションが高ければ、
ノリノリな日なら、
アルコールの力に頼れば、
などと条件を並べて、他人とうまく関われない自分に言い訳をしていた。



そんな自分が、言い訳をしなくなったキーワード。
話さなきゃ勿体ないとさえ思えたキーワード。


「今、目の前にいる人は、同時代を生きている人」




いま・ここ、感覚を大切に。

目の前にいるだけで、出会えているだけで奇跡なのだと思えたら、何かしら「話してみたい」気持ちになれる。
表現こそ学習のゴールにしたい。

・どんな音読表現になるか、するかを問う
・自分ならどう書き表すかを問う
・自分ならどう計算するかを問う
・自分ならどう行動するかを問う
etc.

生きていること、それ自体が表現である

という言葉を思い出した。名誉欲ばかりがあったあの頃…。
それを考えて行動していた自分は、独りよがりで偽善の塊で、欲ばかりが自分にも周りにも見透かされていた。分かっちゃいるのに、抑えきれなかった。


学ぶことは生き方が変わること。すなわち、生き方の表現だと肝に命じて、子どもと向き合いたい。